第12話 天正から慶長へ

 

     ◇

 

 これにて朝倉家は滅亡したが、その後はどうなったのか。

 朝倉家に属していた主要な者たちや、その他関係者その後の動静を、ここに残しておく。

 

・朝倉乙葉

 秀吉に直接降伏した乙葉は、秀吉への個人的な恨みを隠しつつ、これを篭絡することで小太郎を守りながら、恨みを晴らそうとした。

 結果、天正十六年には秀吉の側室となり、その寵愛を一身に受けるようになる。


 その後、秀吉の子である鶴松つるまつを出産する際に産所として淀古よどこ城が与えられたことにより、淀の方と呼ばれるようになった。

 鶴松は幼くして夭折するも、文禄ぶんろく二年八月には第二子である拾丸こと豊臣とよとみの秀頼ひでよりを出産。


 生母として、豊臣家における実権を握っていくことになる。

 


・朝倉雪葉

 越前を脱出した雪葉は飛騨から信濃、甲斐へと向かい、しばしの間は武田景頼に身を寄せることになる。

 その後、情勢の変化から徳川家康の元へと向かい、その庇護を受けた。


 そして文禄四年九月、雪葉の世話を任されていた大久保忠隣の薦めなどもあって、家康の三男である徳川秀忠ひでただの正室として、これに嫁ぐ。

 以降、雪の方と称された。


 そして慶長二年四月十一日、第一子である千姫せんひめを出産することになる。

 

・朝倉朱葉

 雪葉と共に越前を逃れた後は、徳川家に逃れて雪葉と同じく庇護を受けた。


 表面上は雪葉の侍女として常に傍に仕え、雪葉が千姫を出産すると乳母となり、これを養育することになる。

 のちに刑部卿局ぎょうぶきょうのつぼねと称された。

 

・朝倉小太郎

 色葉の子であった小太郎は、約束通り秀吉によって保護され、乙葉の猶子となってその手で育てられることになった。


 元服してからは朝倉教景のりかげと名乗り、のちに秀吉の養子となって一字を与えられ、朝倉秀景ひでかげと改名し、豊臣家の重臣の一人となる。

 


・大日方貞宗

 雪葉らと行動を共にした貞宗は、雪葉が徳川家に庇護されるとそのまま家康に仕え、のちに剃髪して天海と名乗り、徳川家中で暗躍することになる。

 


・真柄直澄・真柄隆基

 共に一乗谷に残り、色葉のしゃれこうべを守って谷を封印。

 慶長八年に千姫が一乗谷を訪れるまで、同地に雌伏することになる。

 


・武田景頼

 朝倉家滅亡後、東海甲信をもって一時的に割拠することになった。


 秀吉からの圧力に対しては、徳川家康と結んで対抗するも、やがて家康と共に秀吉への従属を受け入れ、主従関係を結ぶことになる。

 これにより家康の与力大名として配置。

 以降、家康の勢力が増すとその家臣となる。

 


・朝倉景幸

 北ノ庄城炎上後、亥山城を守っていた景幸は、越前を脱出。

 舅である武藤昌幸を頼って飛騨へ逃れ、これに仕えた。

 


・武藤昌幸

 主家滅亡後、飛騨にて独立した。


 兄である真田さなだ昌輝まさてるが病死すると、真田家の家督を継いで真田昌幸と復名し、その所領を受け継いで、飛騨国に加えて信濃国の安曇あずみ郡から小県ちいさがた郡にかけての所領を有する大名となり、割拠。


 豊臣家と徳川家という二大勢力の間で巧みに保身を図り、最終的には秀吉方についで本領を安堵され、家康と対立する道を選ぶことになる。

 


・武藤信繁

 北ノ庄城から退去した際、信繁は丸岡城に向かわずに亥山城へと入り、景幸を説得して飛騨へと落ち延びた。


 父・昌幸が真田姓に戻ると自身も真田姓を称し、のちに名を幸村と改めて真田幸村と名乗ることになる。

 


・丹羽長重

 父・丹羽長秀が秀吉によって出仕を望まれ、朝倉家滅亡後の越前国を任されることになり、その長秀が天正十三年四月に病没するとその後を継ぎ、越前、加賀、若狭の三ヶ国の所領を任される大大名となった。


 しかしその後、次々に所領を召し上げられ、最終的には加賀松任まっとう四万石の小大名に成り下がることになる。

 


・上杉照虎

 朝倉家滅亡後、実家である上杉家を頼って上杉景勝に仕え、その養子となった。


 最後に朝倉家を裏切った上杉家を快く思っていなかった雪葉に同調し、父の仇でもある景勝の元では面従腹背を貫きつつ、上杉家中での権勢を強めていくことになる。

 


・大野治長

 色葉の育てた小姓の中では唯一、乙葉に従ってこれに仕え、乙葉が豊臣家の中で権勢を増していくと重用され、重臣となる。

 


・島左近

 主であった貞宗が越前を退去する際、牢人となって隠棲。

 のちに豊臣家の石田三成に見いだされ、これに仕えることになる。

 


・姉小路頼綱

 主家滅亡後、越中国を死守し、独立勢力となる。


 のちに秀吉と反目した佐々さっさ成政なりまさを受け入れるも、天正十三年の越中征伐により敗北し、降伏。

 朝廷からの助命嘆願もあって京に幽閉される。


 天正十五年四月二十五日に死去した。

 


・内ヶ島氏理

 主家滅亡後は越中にて独立した姉小路頼綱に帰属。


 越中征伐の際に援軍として越中に向かったが、戦わずして降伏し、また白川郷しらかわごうを秀吉方の金森かなもり可重よししげに攻められて居城を失陥する。

 しかし和睦交渉が成立し、本領が安堵されて飛騨の真田昌幸への監視役となった。


 だが天正十三年十一月二十九日に天正地震が発生。

 居城である帰雲かえりくも城もろとも、内ヶ島うちがしま氏の一族郎党は一夜にして滅亡した。


 余談ではあるが、この大地震はかつて色葉が支配していた領域に多大な被害をもたらしたため、秀吉は色葉の祟りでは無いかと恐れることになる。

 


・武田元明

 北ノ庄城炎上後、秀吉に恭順しようとするが時すでに遅く、近江海津の法雲寺にて捕らえられ、自刃する。

 


・丹羽長秀

 隠居後、北ノ庄に軟禁されていたが、朝倉家の滅亡により解放され、佐和山城の江口正吉の降伏を説得することになる。

 この功をもって越前国や若狭国、加賀国を任された。


 天正十三年四月十六日、積寸白のために死去する。

 


・織田信孝

 賤ケ岳の戦いの最中、信孝は岐阜城を落としていたが、勝家の敗戦により包囲され、降伏。

 身柄は尾張に移されて、秀吉の意を受けた織田信雄の命により自害させられる。

 


・滝川一益

 信孝が降伏すると、景頼は信濃に撤退。三河で孤軍奮闘することになった一益は七月まで耐えたが、ついに降伏。所領は全て没収されて、剃髪することになる。


 その後、越前国を任された丹羽長秀を頼って越前にて蟄居した。

 天正十四年九月九日に死去。

 


・上杉景勝

 秀吉の調略を受けてこれに味方し、越中国へと兵を進めたが、頼綱の頑強な抵抗によって一戦も交えることなく撤退。


 朝倉家が滅亡すると秀吉に接近し、これを後ろ盾として関東方面では家康と対立することになる。


 のちに家康が秀吉に臣従すると、共に豊臣政権下では五大老の一人となった。

 


・徳川家康

 朝倉家滅亡後、甲信の武田景頼や織田信雄と協調して秀吉と対立。


 台頭する秀吉に対抗すべく、越中の姉小路頼綱や四国の長宗我部元親らと結んで秀吉包囲網を形成すると、やがて小牧こまき長久手ながくての戦いが勃発した。


 この戦役は名の由来となった小牧・長久手に限らず各地で合戦が発生し、全国規模で戦乱が巻き起こることになる。

 結果的に両陣営は痛み分けとなって講和となり、秀吉包囲網は瓦解。


 いったん退いて態勢を立て直した秀吉は軍備増強に努めて家康を討つべく再戦の機会を伺っていたが、天正十三年十一月に天正地震が発生したことでそれどころでなくなり、秀吉も恐れおののいて大坂へと逃げ帰ることになる。


 家康は小牧・長久手の戦いで全力を傾注しており、軍事力において秀吉とは圧倒的な差があったことから、実はその命運は風前の灯であった。


 しかしこの大震災によって救われ、秀吉も家康との和解を望むようになり、ついに家康は秀吉に大坂城で拝謁して臣従することになる。

 

     ◇

 

 こうして秀吉は各地の勢力を降していき、ついには全国を平定して天下統一を果たした。


 統一後の秀吉は、やや精彩を欠いていくことになる。

 その最たるものは、最後の天正の年となった、天正二十年の唐入りであっただろう。


 のちに文禄・慶長の役と呼ばれる約六年にも及ぶ外国との戦争は、国内外に重大な影響を及ぼすこととなる。

 その影に妖艶な側室の姿が見え隠れしていたことは、公然の秘密であった。


 そして慶長三年八月十八日。

 その秀吉も、ついに没したのである。



あとがき↓

https://kakuyomu.jp/users/taretarewo/news/16816927859528120934

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