第109話 色葉と秀頼
◇
「――秀頼様。入るぞ」
言うが早いか、わたしはさほど礼節など気にすることもなく、秀頼の居室へと入った。
「お千か。如何したのか?」
わたしが無礼なのはいつものことなので、秀頼も別段咎めはしない。
「話がある。定長、下がれ」
「――ははっ」
突然のわたしの来訪と、不躾な命に、その初老の男は畏まって頭を下げ、すぐにも意に従って退出していく。
名を大野定長といい、治長らの父親だ。
かつてわたしの直臣だった男で、なかなか食えない性格をしており、治長がわたしの小姓となったのも、定長の望みを叶えてやった結果である。
その定長は、朝倉家の滅亡より乙葉に仕えるようになって、今に至る。
妻である大蔵卿局と共に、秀頼の教育係を任されているのだ。
現在大野一族は、乙葉を介して豊臣家でかなりの権勢を振るっているといっても過言ではない。うまくやったものである。
そして定長は、わたしの正体を知っている者の一人だ。
だからこそ、こうしてわたしの命を、盲目的に受け入れているとも言えるだろう。
秀頼と二人きりになったところで、わたしはその眼前に、すとん、と座り込んだ。
お世辞にも気品のある座り方では無かったが、今さらである。
それでも秀頼の前では、少しは気を遣っているのだ。
「改まって、どうした?」
普段があまりにぞんざいなせいか、ちょっと意識しただけでも、その所作が改まっているように見えてしまうのは我ながら笑えるが、そんな余裕もない。
「秀頼様に、お願いがある」
「また?」
「まただ」
この前は、しばし旅に出たいと頼んだのだ。
帰ってきたばかりでまた願い事では、呆れられても仕方が無い。
「私は構わないが、あまり自由にしていると、家臣たちがうるさいぞ?」
「気にしないからわたしは構わない」
「お千らしい」
秀頼が笑う。
年相応の笑み。
まだ幼い秀頼であるが、その立場と周囲の期待、そして乙葉を始めとする者たちの教育のせいもあって、見た目よりもずっと大人びてしまっているのが、今の秀頼だ。
実際、その行動も、自身を律することが大半である。
もっと子供らしく遊べばいいのに、とわたしなどは思うのだけど、それができない立場と性格なのだろう。
「わたしの実家を救って欲しい」
「――――?」
秀頼がきょとん、となった。
即座に意味が分からなかったらしい。
「幕府が今、鎮守府と戦って敗れたことは、秀頼様も知っているだろう?」
「……うん。知っている。秀景や治長たちが、そのことでずっと議論しているから」
幕府大敗の報はすでに数日前に大坂にも届けられており、その対応について、この大坂でも当然、話題に挙がっていた。
しかし今のところ、乙葉たちから聞いた話では、このまま様子見ということになりそうなことも分かっている。
「この豊臣家にも、援軍を出して欲しいんだ」
わたしの言に、秀頼は首をひねる。
「でも、正則たちが京に集まっていると聞いた。かなりの大軍で、これから関東に向かうというし、それで大丈夫ではないのか?」
「大丈夫かもしれない。けれどそれでは、わたしが助けに行けない。それはとてももどかしくて嫌なんだ」
色々理由をとってつけて説明しようかとも思っていたけど、結局本音を言うことにした。
「お千、自ら関東に向かうと?」
「うん。そうだ。そしてそのために、秀頼様にも、出陣して欲しい」
秀頼が目を丸くした。
思いもよらない要求だったからだろう。
「私は兵など率いたことは無い。それにお千とて、同じだろう?」
「秀頼様の馬印があればいい。軍勢そのものは、秀景たちに任せればいいだけだからな。それにわたしの性格は、秀頼様もよく知っているだろう?」
「…………」
秀頼の頭の中に、どういう思考が巡ったのかは分からないけど、しばし沈黙が続いた。
あれこれ考えているのは、顔を見ればまあ分かる。
わたしはそれをじっと待った。
「……お千は、意外に身内思いなんだな」
「む?」
「実家を救いたい、と言っていたじゃないか」
「……わたしはそんな、褒められたものじゃない」
実家といっても、まずは雪葉と秀忠の安全さえ確認できれば、それでいい。
次に、雪葉が産んだわたしの妹や弟ども。
その程度である。
「私もこの身がもし江戸にあって、大坂に危急が迫れば、居ても立ってもいられなくなるだろうから、お千の気持ちはよく分かる」
「なら」
「でも、私の一存では決められない。まず母上を説得しなければならないし、秀景兄上や治長たちもきっと反対するだろうから……」
「そんなことはどうでもいい。わたしは、秀頼様の意思さえわたしと同じくするものであるのならば、どうとでもしてみせる。しかし本当に、いいのか? 戦だぞ? 如何にお飾りでいいとは言っても、命の危険はやっぱりある。負け戦などになったら悲惨だし、今回はかなりの遠征になるから、行軍だけでもきつい。それでも、いいのか?」
「お千だって、戦に出たことはないんだろうに、まるで見てきたようだ」
秀頼がまた苦笑する。
確かにこの身で生まれ変わってから、戦に出る機会は無かった。
でも戦自体はよく知っている。
「見て来たし、知ってもいる」
「……お千?」
「今回の戦など、わたしにとっては初陣でも何でもないんだ。はっきり言って、秀頼様が頼りにしている秀景などよりも、わたしの方が戦を知っているぞ?」
そう言って、立ち上がる。
「秀頼様は、わたしの夫であるけれど、わたしのことをさほど知らない。わたしも敢えて伝えなかったからだ。必要も無いと思っていた。でも戦場に出れば、必ず知られることになる。だからここで見せておく」
そう一方的に宣言して、わたしは普段は隠している姿をさらけ出した。
自身の体躯からすれば、かなり大きくて立派な尻尾と、人にはありえない狐耳。
髪も、黒から狐色へと変じている。
「――――」
秀頼はぽかんとなった。
それはそうだ。
自身の嫁がこんな狐憑きの妖であると、目の当たりにすれば。
忌避されるかとも思ったが、秀頼の反応は少々違っていた。
わたしの予想とは。
「母上と同じだ……」
「む?」
唖然としていた秀頼の瞳に光が戻ったと思ったら、すぐにも何やら感激したように立ち上がり、近寄ってくる。
「触ってよいか」
「あ、ああ……構わないぞ?」
わたしの答えを待つのももどかしいといった様子で、まずは尻尾に触れてくる。
最初はやや恐々とした雰囲気だったけど、触り慣れてくればどんどん積極的になってくる。
わたしの髪や耳を撫でるようになるまで、さほど時はいらなかったといっていい。
「うん、本物だ。母上のよりもきめ細かくて、柔らかい。お千、その尻尾は動かせるのか?」
「ん? まあ……自由自在だが」
ひょいひょいっ、と動かしてやると、秀頼はまたも目を輝かせた。
確かにこの見てくれは、童相手には受けがいいのは経験上、知っている。
そういえば、生前のわたしが初めて景頼や景幸に出会った時も、この姿に実に心躍らされる姿が良かったのを、今でも覚えている。
今では二人ともおっさんになってしまったがな。
「……しかし、大坂に来てからこれほど秀頼様にさわられたのは初めてだな」
「そなたは多少、近寄りがたい雰囲気も持っていたし、幕府の大事な姫君であるし、それに母上もとても気にされていたから、あまり触れられなかったんだ。でもこの姿ならば……うん、とても良い」
今までしゃきっとして振る舞っていた秀頼の普段からすると、ややかけ離れた姿に年相応さも見ることができて、これはこれで良かったのかもしれない。
「……ん、そうか。なるほど」
わたしは今更のように、合点がいった。
狐の妖といえば、わたしなどよりも乙葉の方が、その極まった存在であると言っていい。
その子である秀頼が、乙葉の本来の姿を知らないはずもないのだ。
普段、乙葉は大坂では完全に人に化けているため、朝倉家にいた頃のように、狐憑きの姿は見せていない。
そういえばわたしに会うまでも、基本的には姿を隠していたはずだった。
だからつい失念していたが……。
ともあれ秀頼は、この姿に抵抗を覚えない土壌が、最初からあった、ということになる。
…………ん?
ちょっと待て。
ということは、どういうことだ?
あれ?
今までまったく考えもしなかったことだったけど、秀頼ってまさか。
「秀頼様ももしかして、尻尾があるのか?」
そうなのだ。
秀頼が乙葉と秀吉の子ということは、つまり半妖、ということに他ならない。
雪葉と秀忠の間に生まれたわたしの妹どもが、雪葉由来の雪女の妖の血を受け継いでいるのと同じように、秀頼もまた、そうではないのか。
しかし予想に反して、秀頼は首を横に振った。
そしてわたしの尻尾から離れていく。
「私には、無いんだ」
「? どうして。今の様子からすると、乙……母上様のことは知っているんだろう? あれは正真正面、狐の大妖怪だぞ?」
元は九尾の狐である。
現在は一度滅ぼされて、転生した後の姿であるから往時ほどの力は無いものの、それでもわたしに仕えるようになってからずいぶんと力を取り戻したはずで、大妖怪と言っても過言でない存在だ。
その乙葉の子である秀頼に、その血が流れていないとは考えにくい。
「生まれたばかりの頃に、母上ご自身が斬り落としたと、そうおっしゃっていた」
「なんだと?」
あの乙葉が?
信じられない。
いや――
「そうか。なるほど」
乙葉は長く生きた妖であり、あの姿が必ずしも周囲に好感を与えないことは、経験上知っているはずだ。
朝倉家の頃は、わたしがこの姿で牛耳っていたから問題無かったが、羽柴家に入ってからはそうもいかなかったのだろう。
秀吉自身はあの姿に懸想したのだろうけど、それでも公の場では人の姿が望ましいと判断したのだろうし、事実今でも乙葉は姿を隠している。
特に乙葉は照魔鏡とやらで自身の正体を暴かれて、何度か身を滅ぼした経験があるから、尚更なのだろう。
そして自身はともかく、生まれたばかりの秀頼に妖気を制御し、尻尾を隠すすべは持たない。
だからこそ、妖気の元である尻尾を斬り落とすことで、ひとの姿の保たせたというわけか。
あの情の深い乙葉のことだから、苦渋の決断だったはずだ。
……わたしの元で出産に及べば、そんな思いをさせずにすんだんだろうな。
今となっては、どうにもならないこととはいえ。
「秀頼様がもう少し大人になったら、それを取り戻す手伝いはできる」
「本当に?」
「本当に、だ。ただし、人の道からは、多少外れてしまうがな」
乙葉などは幾度も尻尾を失って、その度にわたしが復活させてきたし、持っていたもの以上のものを与えてもしてきた。
秀頼も恐らく同じことができるだろう。
しかし今は乙葉の意を酌んで、このままでいるべきだろうけど。
「わたしは実は凄いんだぞ?」
「……母上がお千に頭が上がらない様子からも、何となく分かってはいたけど……。お千はいったい、何者なんだ?」
何者、ね。
ちょうどいい機会、かもな。
「そうだな。秀頼様には包み隠さず話しておこう。ちょっと長い話になるが、いいか?」
「構わない」
「よし。ならば話してやろう。朝倉色葉のことを」
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