第98話 不穏な関東情勢
◇
慶長十年七月三日。
事件から一夜たち、その処理に忙殺されていた輝元らはその合間を縫って、この日改めてわたしたちを賓客として饗応してくれたのだった。
その中で輝元と会見する時間があった。
これは輝元から求めてきたもので、先の不始末に対する詫びとして、わたしの投獄に関わった者たちの処断を如何にすべきかと、相談してきたことによる。
「ん、そんなもの。生皮を剥いで吊るしておけばいい。死んでも腐り落ちるまでずっとだぞ?」
「う……」
「あと、一族郎党皆殺し。そいつらは首を落として集めて持って来い」
わたしの冗談に、輝元はまたもや蒼白になってしまった。
どうも冗談に聞こえなかったらしい。
「今のは戯言だ。そういう気分というわけでもないし、わたしの家臣どもの誰かが傷を負わされたわけでもない。管理も行き届いていたし、事を荒立てるつもりもないからな」
「で、では」
「別にお咎め無しでいいだろう? 謝罪もいい。どうせお前が代わりに怒った後だろうからな」
恐らくわたしの捕縛に関わった下級武士の何人かや、その上役などは、すでに切腹の覚悟をしていたのかもしれないが、正直どうでもいい。
それよりもここで毛利家に恩なり何なり売っておいた方が、貸しも作れて将来性があるだろう。
「ありがたく……」
「ん、もっと喜べ。それよりも輝元、聞きたいことがある」
「何なりと」
「お前、しばらく前までは広島にいただろう? 実は知盛に……いや、旅の途中で耳にしたんだが、平家納経というものがあると聞いてな?」
平家納経とは、いわゆる装飾経のことである。
その名の通り、平家一門がその繁栄を願って、厳島神社に奉納したものだ。
あの平清盛も直接関わっている。
直筆の文章もあるとか。
法華経自体には興味は無いが、噂に聞く華麗な装飾には興味があった。
何しろ本好きなのが、今も昔もわたしである。
こういう装飾には、当然関心があったのだ。
「確かにございます。噂によれば、福島殿が一部を修復されたとか」
「正則が?」
「はい。完成してより五百年近く。痛んでいるところもあったのでしょう」
「ふうん。意外だな」
毛利家が減封により安芸を退去した後に入ったのが、関ヶ原で大功のあった福島正則だった。
関ヶ原では家康について戦ったものの、あれは豊臣家の忠臣には違いない。
大坂城にもしょっちゅうやって来て、秀頼やわたしのご機嫌伺いをしては、豊臣家の行く末を案じているらしい。
わたしもよく知っている相手だ。
遊んでもらったこともある。
しかし正則といえば、武勇には優れているものの、猪突猛進な印象の拭えない猪武者の嫌いがあって、いろんな逸話にも事欠かない。
失敗談も多く、最近わたしの家臣になった基次が持っていた日本号などは、元は正則の持ち物だったのだけど、酒の勝負を黒田家臣である母里友信に持ち掛けた挙句、返り討ちにあって呑み取られたことはまあ有名な話だ。
そんな正則であるけれど、一方で内政にも力を入れ、また今聞いたみたいに平家納経を修繕するなど、文化にも理解があるらしい。
「見てみたい」
「は? いや、それは福島殿に申し付けていただかねば」
それもそうだけど。
「明日にも萩を発つけど、一筆書いて正則に送っておけ。今から行くから待ってろ、とな。ここであったみたいに捕まると、さすがの温厚なわたしでも、どう思うか分からんしな?」
下手をすれば、萩でのことも思い出してしまうかもな、と付け加えれば、輝元は畏まりました直ちに! と猛烈な勢いで首肯してみせたのである。
うん。
よろしい。
「大坂に、お戻りになられるのですか?」
そこで何を思ったのか、輝元が尋ねてくる。
「ん、まあゆるりとだけど。それがどうかしたか?」
「いえ、実はですな」
ここで輝元が語ったことに、わたしは耳を疑うことになる。
輝元はつい最近まで江戸におり、その後京や大坂を経て帰還に及んだらしいが、そういう事情もあって東の情勢について最新の情報を知り得ていたのだ。
「――鎮守府大将軍だと?」
何だそれは、である。
話によれば、あの上杉景勝がそんなものを自称したという。
「……景勝殿も、思い切ったことをされる」
しみじみと、輝元はそう感想を漏らす。
輝元と景勝は豊臣政権下にあっては、五大老の職を得ていた。
そして同じ五大老であった徳川家康と対立し、関ヶ原を経て景勝は所領を拡大したものの、輝元は失敗して所領を減じた経緯がある。
「しかし何だそれは。幕府にあからさまに喧嘩を売っていると、そういうことか?」
ここで将軍を名乗るなど、幕府の威信を虚仮にするようなものである。
「千姫様にあられては、実にご不快でしょうが……」
「別に不快というわけではないけど、父上やお爺様などは放っておけないだろうな」
景勝の奴も、それこそ輝元の言うように、思い切ったことをしたものである。
「詳しく話せ」
「はっ。……聞いた話によれば、景勝殿は五月にはそのように名乗られたようです」
五月か。
もう二ヶ月も前だな。
「すでに開戦の雰囲気が濃厚であったと思います」
「ふーむ」
開戦、ね。
こうなった以上、そうなる可能性は高い。
というか、分かっていて上杉はそんな挑発をしたのだろう。
「……会津征伐の時もそうだったけど、上杉の連中は実に喧嘩を売るのが好きだな」
直江状を思い出して、皮肉気に笑う。
となると、またも直江兼続あたりが主犯だろうか。
「……千姫様は、かの戦乱をよくご存じのようで」
「ん、関ヶ原か? 生まれていたし、当然だろう」
「はあ」
まああの時のわたしの年齢は、まだ三歳だったんだけどな。
今だって幼い方なのだろうけど、別段取り繕う気も無い。
「で、西国にも動員がかけられそうか?」
「分かりませぬが、用意は怠るなとのお達しでした」
「そうか」
もし戦となるのならば、戦場は東国である。
近くの諸大名に動員がかけるのが手っ取り早い。
しかし本気で戦となるのならば、総力を上げて上杉を潰すべきだろう。
今の上杉は、関ヶ原の前の上杉の比ではないからだ。
それでも幕府の優位は動かないだろうけど。
あとはまあ、豊臣家や真田家あたりがどう動くか、といったところか。
もしかすると、上杉あたりから何かしら密使が来ていてもおかしくはない。
となると、この時期に大坂をあけてしまったのは、やや軽率だったかな。
不可抗力だけど。
「……少し遊びが過ぎたかな」
何となく、そう思ってしまったのである。
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