第102話 宇都宮評定(前編)


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 色葉が九州から中国に渡り、安芸国の広島に滞在して、福島正則と共に大坂に向かうまでの間、当然ながら関東においても事は進んでいた。


 まず慶長十年七月十五日に、松平秀康率いる北陸勢・越後方面軍が越中富山城に着陣する。


 そして十八日には、幕府方の主力である会津方面軍が、江戸に着陣していた。

 その主力が江戸城を出陣したのが、二十日のことである。


 慶長十年七月二十三日。

 下野国しもつけのくに宇都宮うつのみや城。


 鎮守府軍の南下を知った幕府軍は、この宇都宮城を本営とし、徳川家康、秀忠らはここで今後の戦略を練ることとなっていた。


「……このままですと、戦場は下野国那須なす郡のどこか、ということになりそうですな」


 まずそう切り出したのは、主力の先陣を任されていた藤堂とうどう高虎たかとらである。


 高虎は現在、伊賀と伊勢に所領を持っており、今回参陣した諸大名の中では関東や北陸の大名ではない。

 それだけに家康の信頼が厚かったと言っていいだろう。


 高虎はこれまで主君を何度も変えたことは、幕府においても周知の事実であり、それを快く思ない者も多かったが、家康は一顧だにしなかったという。


「迎え撃つのではなく、逆に攻め込んで来るか」


 地図を眺め、家康は唸った。


 那須郡はちょうど、陸奥との国境に当たる。

 鎮守府の置かれている会津は目と鼻の先。


 上杉景勝は会津の地ではなく下野国へ駒を進め、迎撃する腹積もりであろうというのが、諸将の認識の一致するところであった。


「となると、大田原おおたわら城が狙われますな」

「であろうが、ここから先は迂闊に兵は進められん。さて、どうしたものか。……秀忠よ、おぬしはどう考える?」

「は、はい」


 家康に振られ、秀忠は慌てたように地図を睨んだ。


 意気込んでここまでやって来た秀忠ではあったものの、戦場での駆け引きの類は、未だに不得手であったこともある。

 また敗戦の経験しかなかったことも、秀忠の枷になっていたと言っていい。


「敵の戦力は、如何ほどでしたか」

「鎮守府軍が号するのは八万です。されど我らに対する敵の主力は、四万五千ほどかと想定されます」


 答えたのは土井どい利勝としかつ

 秀忠の側近である。


「では、数の優位はこちらにありますゆえ、決戦に持ち込めば勝利は間違い無しかと。その上で会津に一気に攻め込めば、戦は終わります」

「待て待て」


 秀忠の言に、家康はすぐにも表情を渋くした。


「数の優位というが、こちらは五万。大した優位ではないぞ。戦術を駆使して勝つも良いが、ここは戦略を駆使すべきところであろう」

「で、では如何にせよと……仰せられますか」

「ふむ。宗茂むねしげよ、おぬしならばどうするか」

「されば」


 答えたのは立花たちばな宗茂。


 関ヶ原の戦いにおいて西軍に与したことにより、改易され浪人となっていたが、その器量を惜しんだ家康により説得され、徳川家に仕えて大名に返り咲き、秀忠に付けられていた人物である。


 関ヶ原の際もそうであったが、豊臣家への忠誠心が高いため、家康もその説得にはずいぶん骨を折ったという。


「敵の総数は八万足らず。内半数以上が、我らが眼前に集まっておりまする。となれば、当然越後方面の守備が手薄になっているに相違ありませぬ。であれば、ここで無理に戦わず、敵を引き付けているうちに、越後攻略を為すが最善手かと考えます」

「宗茂の言、我が意を得たり」


 その通りであると、家康は手を打った。


「秀忠よ、我らは無理に戦う必要は無いのだ。ここでこうして健在であれば、やがて周囲より方がついていく。それで良い。無理は禁物ぞ」

「な、なれど」


 家康の言に、秀忠は慌てる。


「それでは我が功を上げる機会が巡って参りませぬ。越後攻略は、兄上がなされておりまする。兄上はお強いゆえ、きっと大功を上げられるでしょう。それに比べてわしは……」


 最後には言いよどむ秀忠を見て、家康はため息をついた。

 どうやら未だに関ヶ原の一戦の折、信州にて勝利を得られなかったことが、未だに尾を引いているらしい。


「将軍たるものが、些事に捉われるではない。大将自ら戦場に立つは、時には蛮勇との誹りを受けよう。……かつて鎌倉の地に幕府を開いたみなもとの頼朝よりとも公は、決して戦は得意ではなかった。結果を見れば、であるがな。されど戦場そのものは家臣に任せ、自らは大局的見地からその指揮に専念することで、最終的に勝利を掴んだのだ。そういう戦い方もある。おぬしは頼朝公にこそ、学ぶべきであろう」

「……は」


 そう言われては、秀忠としては頷くしかない。

 そんな主を見て、思わず声を上げてしまったのが、利勝であった。


「しばらく!」

「うん? いかがしたか、利勝よ」

「大御所様の仰せ、まことにその通りであるかと心得ます。されど征夷大将軍とは武家の棟梁。その武威を自ら示してこそ、味方は鼓舞され、敵の士気を挫くことでしょう。大御所様が関ヶ原にて西軍を破ったことは、これ以上無い効果をその後に与えたかと存じます。それを、思い出していただければ」

「ふうむ。この忠義者め」


 今の利勝の意見は、必ずしも利勝自身の意見でないことくらい、家康もすぐに見抜いていた。

 あくまでも秀忠の意思と立場を慮った意見である。


「確かにあの一戦は、幕府成立に大きく貢献したと言えるだろう。されどな、あれは半ば賭けのようなものであったのだ。負ければ全てを失っておった。されどそうしなければならない情勢と、そして価値があったのだ。ゆえにわしは戦に臨んだ。されど今は、賭けに出ねばならんような局面では無かろう」

「……は。その通りかと、存じます」

「まあまあ大御所様。それがしなども、端から決戦回避を想定されるのは、いささか早計かと存じますぞ」


 閉口した利勝に代わり、ここで口を挟んだのが高虎であった。


「高虎よ。そなたほどの男でも、決戦を望むのか?」

「いやいや。敢えて望む必要はありますまい。されどこちらが望まずとも、向こうが仕掛けてくる可能性をお忘れなく」


 やんわりと、しかし無視できない内容を、高虎は口にする。


「というと?」

「こちらには大御所様に上様、お二人が揃っておいでです。それがしが上杉殿であれば、何としても決戦に持ち込み、お二人の首級をあげようと遮二無二にでも戦うでしょうな。見事その首をとることが叶いましたならば、一時的に越後を失おうとも、大した痛手ではございませぬゆえ」


 その指摘に、家康はぎくりとなった。


 まさにその通りで、ここで家康と秀忠が討ち果たされるようなことになれば、幕府は差し当たっての後継者を失い、早々に瓦解するだろう。


 幕府は未だ安定とは程遠い。

 西国の諸大名は次々に離反し、世は混沌となるのは目に見えている。


「大御所様。先の大御所様の言を徹底なさるのであれば、上様ともども江戸城より動いてはなりませぬ。確か頼朝公は常に鎌倉にあったはず。この地まで参ってしまった時点で、中途半端と言うものですぞ。ははは」


 からからと笑う高虎ではあったが、まさにその通りであったと言っていい。


「……しかし藤堂殿。軍に上様がおられるのとおられないのでは、兵卒の士気が違ってきますぞ。我ら配下とて、意気込みが変わるというもの」


 宗茂の言に、如何にもと高虎は頷く。


「如何にもその通り。それがしが言いたいのはだな、現状の批判ではなく、現状を活かすことである。本陣に大御所様と上様がおられ、我らの士気は高い。そして敵は決戦を仕掛けてくる公算が高い。なれば、如何に有利な状況でその決戦に持ち込むかを考えた方がよろしいのではないか、と申しておるのだ」

「なるほど」


 宗茂も頷く。

 家康も同様に、唸ってみせた。


「ふうむ。上杉が仕掛けてくるならば、確かに受けざるを得ん。されどこのままでは、どちらに勝敗が転ぶか分からん。となれば、どうすべきか」

「……なれば、敵の戦力を事前に削いでおいては」

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