転職活動

 会社を正式に辞めたあの日から、緊張の糸でも切れたように誠二の起きる時間は遅くなった。と言っても、起きるのはいつも七時頃。異常に早い時間から普通に戻っただけ、と言っても何らおかしくない時間だった。


「おはよう」


「おはよう。朝ごはん食べる?」


「うん」


 美空は、そんな誠二の寝顔を見ている時間が好きだった。いつ死んでもおかしくないと思っていた男が、ようやく安寧の時間を取り戻せたようだったから。だから、美空は誠二が起きる三十分くらい前にいつも目を覚ます。そして、朝食の準備をさっさと行う。

 今日も、いつもの時間に誠二が起きてきたから、美空は誠二に朝食を食べるか尋ねた。最近の誠二は、食欲も回復傾向にあった。前までは一日一食。悪い時には一食も食べないこともあったのに、最近では三食キチンと食べている。少しずつ、食べれる量も増えていた。


 朝ご飯を食べながら、朝のニュースを見ながら、誠二はそれから美空の家事の手伝いをする。それが、最近の誠二の日課だった。

 借りたばかりの部屋ではある。当然、入居する前にクリーニングもされている。

 ただ二人は、毎日欠かさず部屋の掃除をしていた。欠かさず何かをすることは、一日を良い日にする、という意味で、大切な行動だと言うのが、二人の共通認識だった。


 掃除をして、洗濯物をして、昼ご飯を食べて……そしてようやく、二人の別々の時間がやってくる。


 ヨガをし精神統一を図る美空を横目に、誠二はスマホを睨みつけていた。見ていたサイトは、転職活動支援のサイト。

 幸い、誠二にはそれなりの蓄えがある。評価が芳しくなく給料が多かったわけではないが、遊んでいる時間がなかったための蓄えだ。

 

 辛い思いをしたわけだし、しばらく遊ぶのも手ではないかと美空は誠二に言っていた。

 しかし、誠二はそれに難色を示していた。


「今ここで遊び始めたら、一生定職に就けなそう」


 それは、誠二だけが知る誠二の姿。

 ブラック企業に勤めて辛い目にたくさん遭ったせいでそう見られなかったが、誠二は元はかなりいい加減な性格をしていたのだ。


 そんな自分の性格を知っていたからこそ、誠二はさっさと次の会社を見つけたかった。

 だから、退職した翌日から今見ている転職サイトにアカウント登録をして、会社の目星をつけているのだった。


 スマホをいじり、画面をスクロールして。


 誠二は、一つの会社が良さそうだと思い始めていた。


 そんな時、突如周囲が暗くなった。

 顔を見上げれば、美空の指が誠二の眉間を撫でた。周りが暗くなったのは、美空が誠二に近寄ったためだった。


「眉間に皺寄ってる」


 誠二の眉間を撫でた美空が、難しい顔で言った。

 誠二は苦笑した。美空が言いたいことは、まるで辞めた会社にいた時のように、誠二が転職活動に当たって追い込まれている風だと言いたかったのだろう。


 確かに、深刻に捉えすぎるのは良くない。


「まあ、もう少し見守っててよ」


 しかし誠二は、美空をそう言って宥めた。


「……でも」


「君のためにも、良い会社に何とか巡り合いたいんだ。だから、もう少し」


 自分のため、と言われると、美空もそう強くは言えないのだった。

 そんな生活が一週間続いた頃、誠二は数社に目星をつけて、近々面接に行く予定を取り付けたのだった。


「そう言えば、スーツ」


 前の会社が私服通勤オッケーだったので、すっかり忘れていたが、今自分はスーツを着れるだろうか。誠二はそんなことを思い出した。

 そもそも、スーツはどこに入れていたか。クローゼットの方に向けて、誠二は立ち上がった。


「はい、スーツ」


 言われるより早く、美空がスーツをクローゼットから取り出してきた。

 最早この部屋にある物の場所は、誠二より美空の方が詳しかった。


「……着れるかなあ」


「これ買ったの、いつ?」


「四年前。入社の時に」


「最後に着たのは?」


「……うぅん、試用期間が終わるまでは着ていたはず」


 どっちにせよ、四年近くこのスーツを羽織った記憶が、誠二にはなかった。であれば、まずはクリーニングからか。

 そう思ってスーツを見ると、クリーニング済みのタグが裾のところに付いていた。そう言えば、いつかコート類と一緒に美空がクリーニングに出してくれたことを、誠二は思い出した。


「ありがとう」


 誠二はお礼を言った。


 美空は、何のお礼かわからず首を傾げていた。


 一先ず、スーツを着てみようと誠二は思った。一旦美空に部屋から出てもらい、誠二はそれを身に纏った。


「着終わった?」


「うん」


 当時から体重は少し減っていたから、スーツが着れないことはなかった。ただ随分と久しぶりに着るものだから、着させられていないかが誠二は心配だった。


「ど、どう?」


「うん。大丈夫」


 美空のお墨付きであれば、問題ないなと誠二は思った。

 手間取ったのは、ネクタイを付けることだった。どうせだからと美空に促されたから巻こうと思ったが、長らく着ていないためにそんなものの付け方、誠二はすっかり忘れていた。


 しばらくして何とか巻けて、誠二は一息つこうとした。


 その時、美空が誠二に近寄った。

 誠二は思わず、一歩後ずさった。日頃狭い室内で同居しているにも関わらず、誠二はまだ美空に近寄られることに慣れていなかった。


 そしてそもそも、美空がどうして自分に近寄るのか、誠二はわからなかった。


 美空から手が伸ばされた。


 その手の行先は、ネクタイだった。


「曲がってる」


 そう言って、美空はネクタイの位置を整えてくれた。


「……あはは」


「どうしたの?」


「なんだか、新婚生活みたいだなって……」


 誠二が言うと、美空の目が丸くなり、しばらくすると彼女の頬がほんのり赤く染まった。


「そ、それはどうかな……」


 戸惑う美空に、誠二は首を傾げた。

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