見返り

 虚を突かれた思いだった。

 平日の昼間。あの休業日以外、誠二という男がそんな時間に家の傍にいたことを、美空は知らなかった。

 誠二はブラック企業勤めだから。誠二は過度なワーカーホリックだから。


 だから誠二は、自分の看病はせずに会社に向かったのだと美空は思い込んでいた。


 別に、誠二が会社に行っていたとして、美空はそれを責める気は一切なかった。彼の現状を一月生活を共にして見て来て、破滅願望を持っていることを知って、人としての機能を投げ打って仕事に心血を注いでいることを知って、彼を責められる道理がどこにあろうか。むしろ昨晩、折角早く帰ってこれたのに、買い出しにまで出掛けてくれて、そのことに美空は感謝しかありはしなかった。


 彼を責めることなんてありえない。

 そしてそれは当然、彼もわかっていたはずなのだ。


 一月同居して、美空が発熱した際、看病をしなくたって、彼を責めないことくらい……誠二はわかっていたはずなのだ。


「どうして?」


 だから美空は、思わず誠二にそう尋ねていた。

 どうしてここにいるのか。

 会社をサボって、ここにいるのか。


 今までいつだって誠二に見せたことがないような鋭い瞳で、美空はそう尋ねていた。


「それより、熱下がったの?」


 誠二は、スマホを手に持っていた。それをポケットに仕舞って、美空の額に手を触れた。


「まだ熱いじゃないか」


 そして、少し怒ったように美空の肩を掴んだ。

 不貞腐れる美空の肩を、誠二はぐるっと回した。そして背中を押して、扉を開いて、部屋へと彼女を押し戻した。


「どうして、いるの?」


 なされるがままの美空の声は、静かに震えていた。


 いないと思ったのに。

 足を引っ張っていることを認識したから、出て行こうと思ったのに。




 どうして、いるのだ。




「会社、サボったんだ」




 玄関。


 思わず、美空は誠二の言葉で彼の方に向き直った。その瞳は、まるで誠二の正気を疑っているような、そんな訴えを込めた瞳だった。


 誠二は、苦笑した。


「丁度有給も余ってたから。今の世間では法令規則、と言うものがある。会社は従業員に、必ず五日以上の有給休暇を取らせないといけないんだ。ただ僕は、今年まだ有給取得ゼロ。丁度良い機会だと思ったんだ」


 去年は結局、年度末までそれが余ったため、無理やりそこで休みを取った。と言っても、申請こそすれ会社には出社したのだが。

 その際世間体を気にする上司から、来年度はそんなことがないように、と口酸っぱく言われていた。だからそれを実行したのだ。


「ただ、仮病で休んだんだけど、凄い上司が文句言ってきてさ。電話したら絶対出ろってうるさくて。で、丁度今電話が来たから、外でそれに応対してた」


 実に三十分に一回。

 誠二のスマホは、それくらいの頻度で会社からの電話が鳴っていた。部屋で出ると、美空を起こしかねないから、誠二は電話が鳴る度に外に出て、それに応対していた。


 その度に言われたことは、こんなに仕事残しやがって、との文句。

 仕事の割り振りが悪いんだろ、と思ったが、媚びへつらってそれに応対した。


 家族より、仕事を優先すると思ったのに。




 いざその場に立ってみると、誠二は美空が心配でたまらなかったのだ。




 恐らく今日は、定時までずっと電話は鳴りっぱなしになるだろう。ただ、それらの対応はきっとおざなりになる。

 それはそれが有給休暇を取った社員の権利であり、そんなことよりも何より、美空のことが心配だったからだった。


 ……ただ、本当にダブルスタンダードな上司なこった。


 そう思って、誠二は美空に向けて呆れたため息を吐いた。




 ただ、美空は誠二が何に向けてため息を吐いたかは、わからなかった。


 ただそんなこと、美空は気にしていなかった。




 もっと。




 もっと、もっと……。




「どうしてっ!?」




 美空には、わからないことがあった。




「どうして仕事よりあたしを優先にしたの。どうして仕事に行かないの!」




 誠二は、必ず仕事に行くと思っていた。




 美空の知る誠二は……。




 精神をすり減らしてでも仕事をして。

 寝る間も惜しんで仕事をして。


 ご飯も食べずに、仕事をして……。


 死にたいくらい、気を病むくらい、仕事のことが嫌いなのに。


 それでも仕事をする、そんな愚直で馬鹿な男、だったのだ。 




 そんな男がふとあんな笑顔を見せたから、美空は支えたい、とそう思ったのだ。




 そんな誠二の仕事の邪魔をしたと思ったから、美空はここから立ち去ろうと決意したのだ。




「……僕も仕事に行くと思ってた」




 そんな美空に、誠二は同調するように語りだした。




「君が熱を出したことも、最低限のやることはしたし、と思ってた。解熱剤を買って、飲ませて。それで良い、と最初は思った」




 でも、誠二は見てしまったのだ。




「でも君は、逆の立場ならきっと、それで良しと思わなかったんだろうなって」




 冷蔵庫に保管されていたたくさんの手料理は。


 いつも、深夜に帰ってきた誠二が振舞われていた手料理より、それよりたくさんの手料理は……。




 それは、いつもより辛い状況に陥った誠二を救うために用意された、美空の想い。




「君相手には、普通じゃダメなんだって気付いた」


 その手料理を見て、誠二は笑ってしまった。


「それくらい君が、僕をサポートしてくれるから」


 美空が献身的なことは知っていたのに、笑ってしまったのだ。


「だから、僕もそうしようと思ったんだ」


 だって最初は、破滅のために美空を匿ったのに、気付けば誠二は彼女に生かされているのだから。


「明日上司に目一杯怒られるのがなんだ。明日メーカーに人格否定されるのがなんだ」


 美空がサポートしてくれるから、誠二は仕事に集中出来るのだから。


「……だって、あいつらは僕をここまで親身になんて見てくれない」


 連中と違う美空だから、そうしようと思ったのだ。




「つまりさ」


 誠二は茶化すように微笑んだ。




「見返りがあるから、君の看病をしてるんだ。アハハ……」


 その笑顔は、いつかの休業日に美空が見た誠二の笑顔。


 もう一度見たいと思った、そんな笑顔だった。


 気付けば美空は、何も言わずに誠二の胸に飛び込んでいた。




 仕事が忙しい時。

 例えば、品質トラブルが起きた時。繁忙期に差し掛かった時。


 そんな時に、家族が熱を出したとする。


 その時に、仕事を取るか。家族を取るか。


 誠二は、仕事がトラウマになっている。

 上司に叱られ、メーカーに叱られ、刃傷沙汰に巻き込まれたような恐怖を味わい、トラウマと化したのだ。




 でも、誠二は少なくとも美空に対してであれば、仕事よりも美空を取る。




 それは美空をサポートすることで、見返りをもらえるから。




 そして。




 これまでの恩を返すべく。

 これまでの見返りを美空に受けてもらうべく。




 そうするべきだと、誠二はそう思ったのだ。




「……ありがと」




 胸に飛び込まれていた美空から、そんな声が漏れて聞こえた。


 仕事を休み、明日へ向けての恐怖が僅かばかりかあったのに、気付けばその一言でそれが軟化していることに、誠二は気が付いた。




「こちらこそ、ありがとう」




 この一月、一体どれだけ美空にサポートしてもらっていたことか。


 だから誠二は、感謝を込めてそう美空に伝えた。

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