職場
美空の家出騒動から数時間。
美空の熱が下がったのは、ずっとひっきりなしになっていた誠二の電話が鳴らなくなりしばらくしてのことだった。
夕飯は、先日の美空が作り置きして冷蔵庫に仕舞われいていた手料理から数品を二人で並んで食した。
思えば、こうして部屋で二人でご飯を食べるのは初めてなことに、二人は苦笑し合うのだった。出会って数日の頃ならまだしも、気付けば二人はこの部屋に一月もの間同居しているのだから。
社宅に住む誠二は、仮病を使って休んだことに対して、誰か見舞いに来たらどうしようとノミの心臓と発症させていたが、結局社員の誰かが誠二の部屋に彼の様子を見に来ることはなかった。そのことに助かったような、悲しいような顔をしていたことが、美空は印象に残っていた。
「そう言えば、今日掃除機かけてない」
夜の十時に差し掛かろうかと言う時間に、美空は思い出したようにそう言った。
熱が出ているのだから当然ながら、昨日今日と美空はずっとベッドで寝て安静にしていた。当然、家事は一切その間していない。
夕飯の洗い物は誠二が済ませた。仕事に忙殺されてあまり自炊はしない誠二だったが、それくらいの家事は出来るのだった。
ただ掃除機は、美空が寝ている手前起こすわけにもいかないし出来るはずもなかった。
「別に、一日くらい大丈夫だろう?」
「……昨日もしてない」
二日ぐらい大丈夫だろう、と言いかけて、それでも納得しなさそうな美空に誠二は言葉を引っ込めた。
「この時間から掃除機かけるのも迷惑だし、明日にしよう」
「うん」
美空は残念そうに頷いた。気付けばすっかり、この部屋の住人としてこの部屋の清潔状態が気になっているようだった。
その辺がおざなりな誠二は、彼女の態度がおかしくて苦笑した。
「何?」
「いや、働き熱心だなって思って」
「誠二さんが言う?」
働き熱心、と言う意味なら、確かに軍配は誠二に上がる。美空は決して、深夜帯まで延々と家事をするわけでもない。
「確かに」
頷くと、それが一層おかしくなり、誠二は遂に噴き出すのだった。
その反面、そんな調子の誠二を訝しげに見ているのは美空だった。
「……ねえ、誠二さん?」
そして美空は、楽しそうな誠二に対して重々しく口を開いた。
美空のただならぬ気配を、誠二は感じていた。別れ話を恋人に告げられるような不安を胸に抱えたのだ。
少しして、美空とは一応、交際相手であることを誠二は思い出すのだった。
一瞬、また可笑しい気持ちになったが、美空の深刻そうな瞳に誠二は気圧された。
「何?」
一つ咳ばらいをして、誠二は言った。
「……えぇと」
美空は、誠二を呼び止めておいて、言葉は用意していなかったらしい。
「深刻になって欲しいわけじゃないんだけどね……」
逡巡し、戸惑って、そんな前置きを美空はした。
「誠二さん、さっきあたしを看病したのは、見返りがあったからって言ったじゃない?」
そして美空は、更に遠巻きに話し出すのだった。
何を言いたいのだろう。
よくわからなかったが、問いかけの内容ははっきりとしていた。
「うん」
誠二は頷いた。
「……それは、ね。嬉しかったんです。あたしでも、多少なり誠二さんのサポートが出来ているんだって」
「多少なんて、そんな」
多少と言うには大きすぎるくらい、誠二は美空にサポートされてきた自負があった。
「でも、だからこそ同時に思ったの」
ようやく美空は、本題に切り出すらしかった。
「誠二さん。誠二さんの会社は……あなたに、ちゃんと見返りをくれているの?」
心配そうな美空の瞳を見る必要もなかった。
そんなものを見るまでもなく……誠二は、美空の言いたいことを理解したのだった。
そもそも、だ。
サービス残業を強要する癖に評価は真っ当ではない会社状態。
中間管理職のような精神的威圧感を平社員に与える上司。
他人に仕事を押し付け、自らの行いを棚に上げて失敗の責任を擦り付けてくる同僚。
当然ながら、そんな会社がまともなはずがなかった。
正しい見返りを誠二に与えているはずがなかった。
「そんな見返りのない会社、辞められないの?」
さっきまでの和やかなムードは一変、室内は静まり返っていた。
しかし、美空はそれでも良いと思っていた。
自らに匿う居場所を与えてくれた。
自らの体を欲求の捌け口にしないでくれた。
自らが熱を出したら仕事を休んで看病してくれた。
そんな誠二が不当な扱いをされていることを、美空は許せないと、そう思い始めていた。
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