夫婦
会社を辞める。
美空の言いたいことがわからない誠二では、勿論なかった。これまでたくさんのトラウマを製造され、その果てに自殺さえ彼は一度願った。
そんな誠二が、会社を辞めることを、これまで一度だって考えなかったはずがないのだ。
ただ、そうはせずにこれまで来た。
今だってまた、美空に向けて顔を俯かせるのだった。
「どうしたの?」
美空は、思っていた。
誠二は最後の一押しが欲しかったのだと。それは、死、を望むのもそうだが、会社を去ることだってそうだと思っていたのだ。
でも今の反応を見る限り、どうやらその当ては外れていたらしい。
「辞めようと思ったことが、ないわけじゃないんだ」
誠二が気にしていたこと。
「転職活動が上手くいくかなんて、わからないじゃないか」
それは、結局何も変わらないのではないのか、という不安だった。
これまで誠二は、たくさんの仕事を今の会社でこなしてきた。それが成功、失敗だったか、は今は置いておいて、それだけたくさんの仕事をこなしてきた、と言うことは、今だってそうなのだ。
たくさんの仕事を置いて今の会社を去る。それは必ず遺恨を生むのだ。たくさんの仕事を押し付けられた誠二だからこそ、それは重々理解していた。
そして、たくさんの遺恨を残して。
転職活動が上手くいくとは限らない。
転職した先の会社で、今の会社と同じ目に合わないとも限らない。
だから誠二は、一歩手控えたのだ。
だから誠二は、この先に不安と絶望しか感じられなかったから、死、を望んだのだ。
誠二の言いたいこと、美空は誠二の態度を見てなんとなく理解した。
しかし、だ。
「それでも、今よりは好転する可能性の方が高いんじゃない?」
今の誠二を見ていて、美空はそう思った。
死を望む、なんて、普通の精神状況ではないのだ。美空も似たような経験があるから、そうだと思わされるのだった。
誠二も内心ではそれを重々承知している。
しかし、どうしても一歩を踏み出せなかった。
虚ろな誠二は、何度だって見てきた。仕事に疲れた彼は、正常な判断が出来ている様子は一切なかった。
しかし、今のように失意の底にいる誠二は……今まで一度も見たことはなかった。
「誠二さん?」
誠二からの返事はなかった。
失意の誠二に、返事をするだけの気力はなかった。
美空は、そんな誠二を見て悟る。
「誠二さんは、怖いんだ」
誠二の心の奥底にある恐怖心を。
誠二の抱える心の闇を。
美空は、悟るのだった。
「……うん。そうだね。怖い。怖いんだ」
誠二は、美空に言い当てられ、最早それを隠す術はなかった。
仕事を押し付ける同僚と尾を引くことも。
転職活動が上手くいかないことも。
転職先で、失敗することも。
誠二は、全てが怖かった。
だから、一歩を踏み出せなかった。
「……逃げるのは、楽だもんね」
今の美空は、誠二にはまるで女子高生には見えていなかった。
占いの館にいる占い師に見られている気分だった。占い師は、相談者の話をうまく聞き、彼らの不安を言い当て、そして励ましの言葉をかける職種。オカルティズムなことを信じない誠二にとって、その職種はそういう印象だったのだ。否定しているわけではない。誠二は他人に共感することも、話術で他人を安心させることも苦手だから、むしろ尊敬していた。
ただ、そんな占い師に美空が重なることは違和感があった。
占い師が占い師たれる最大の理由は、他人の不安に共感出来るだけの人生経験があるから。
まだ女子高生の美空にそれがあるだなんて、到底思えなかったのだ。
だが今、誠二は確かに美空に言い当てられてしまったのだ。
「でも、逃げると必ず後悔する」
全てを知っている風に、美空は言った。
「だから、立ち向かおう」
そして、そんな占い師のような少女に……誠二は今、励まされているのだ。一歩を踏み出すんだ、と激励されているのだ。
まるで自分もそれを体験したことがあるように、美空はそう言った。
誠二は……、
「逃げるわけじゃない」
美空を拒絶するように御託を並べた。
「逃げじゃない。失敗することがわかっていて、それに突っ込むだなんて間違ってる。だから今の道を進む。それが失敗だったと思ったら破滅しようと思う。それは、間違いではない」
間違いではない。
少なくとも、誠二はそう思った。
「間違いだよ」
しかし、美空はそれを違うと言う。
「どうして」
「あたしが、嫌だから」
誠二は、何も言えなかった。
……それでは。
それではまるで。
まるで……。
「逃げ出さず、立ち向かおう?」
美空は、静かに誠二を励ます。
「一人で怖いんだったら、あたしもいる」
静かに、励ます……。
「あたしもいるの……」
誠二は、何も言えなかった。
「一緒に立ち向かっていくのが、夫婦だよ」
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