一人の部屋

 レンジの音が聞こえてから、どれくらいの時間が経ったか。

 美空は昨晩から一歩も出れずにいるベッドで、目を瞑ったままではあるが意識を覚醒させた。


 こうしてただ寝ているだけの一日……二日も、彼女の中では記憶にない。特に、ここ一月は誠二に付き合って寝る時間も減らすような苦行をしていたせいで、一切そんな日なんてありはしなかった。

 また、誠二の言った通りになった、と美空は思っていた。


 体に悪いから、自分に付き合うような真似は止めろ。

 それはいつか、誠二が美空に忠告したことだった。あの時から、美空はその忠告を一切聞き入れてこなかったが、その結果が今回の一連の騒動の発端。


 ただ主要因は恐らく……誠二のために、と思って一生懸命作った手料理が、結局誠二に食べてもらえることがなくなってしまったから。

 あの時美空は、切れる寸前まで張っていた糸が、プツンと切れるような。そんな落胆感に見舞われたのだった。


 一徹し、更にいつもより遅い時間に帰ってきた誠二を責められる道理はない。

 誠二に好物を振舞いたいと勝手に躍起になったのは、美空なのだから。


 ただ、その糸が切れたせいで途端、蓄積していても気にしてこなかった体の疲労を美空は一気に感じてしまったのだ。

 だから、美空は発熱してしまったのだ。


 昨日。今朝に比べると、随分と体が軽くなっていることに美空は気付いた。誠二の買ってきてくれた解熱剤が効いたのかと思った。


 ただ、その解熱剤の事を思い出すと、熱でうなされていて中々機能しなかったものの快復傾向に向かう頭が、渦を巻いた悪感情に襲われた。

 

 誠二の就寝時間に合わせる行為も。

 好物を振舞いたいと思ったことも。


 全ては、美空が勝手にやりたいと思ったこと。


 ただその結果、得られた成果は何もない。むしろ、発熱し誠二に心配をかけて、たまに早く帰ってこれた昨晩、買い物を強いることをさせてしまった。


 誠二をサポートしたい一心だったのに。


 気付けば、自分は随分と誠二の足を引っ張っている。


 美空は、気付いてしまった。




 ……もう、出てってしまった方が良いのかもしれない。




 いつか美空は、誠二に言われたのだ。

 

『何なら、家の物を持ち逃げしても構わない』


 持ち逃げは勿論するつもりは微塵もない。ただ、逃げても良い、と誠二に言われたことが、内心で美空はずっと引っかかっていたのだ。


 誠二にも引けを取らない破滅願望を持つ美空は、当時その言葉に自分が従う日が来るとなんて思ってもいなかった。


 ただ、誠二への気持ちが少し変わり…‥。


 誠二をサポートしたい、と少しずつ思うようになり、空回り、自分がまったく彼のサポートなんて出来ていないと悟った今、美空はここから逃げるべきだと思った。

 このままここにいても、自分はこれからもこうして、誠二の足を引っ張る。あの休業日に見せた笑顔を遠のかせる、そんな事態を自分が招くのだ。


 そんなの美空は、一切望んでいなかったのだ。


 だから、彼の足を引っ張らないため、逃げるべきだと思った。




 幸い、まるで鉛のようになっていた昨日よりも、体は軽い。

 今なら多分、立って、歩いて、外に出て……ここから去ることも、難しくはない。


 美空は、時計をチラリと見た。


 今は、昼を少し超えた十三時頃。つまりは、普通のサラリーマンなら業務時間中。


 普通よりもブラックなサラリーマンの誠二ならば、会社にいる時間帯なのだ。


 今なら、誠二に気付かれることなく家を立ち去れるだろう。




 美空はベッドから体を起こした。

 そして、室内を見回した。ワンルームの誠二の部屋は、ベッドから体を起こすだけで、廊下まで一望出来る。


 美空は気付いた。




 部屋に、誠二はいない。




 そして、誠二の履いているスニーカーもない。

 



 誠二は、仕事に行っているのだろう。




 当然だと美空は思った。


 自分のような得体の知れない相手を部屋に匿うだけでなく、仕事を休んで看病までするだなんて。




 そんなの……。




 そんなのまるで、家族、みたいじゃないか。




 美空は苦笑した。




 自分から求婚しておいて、心の底から誠二のことを、夫、だなんて思っていなかったことに気付いて、笑うことしか出来なかった。


 昨晩、仕事帰りで疲れた体を押して薬を買ってきてくれただけ、彼の良心は伺える。


 なのに自分は……。




 美空は、一月前滞在する時に持参していたリュックサックに荷物を詰めた。いつかアウトレットで買ってもらった服は、全てリュックサックに詰めた。誠二に自分がいたことを忘れて欲しいと思ったのと、心に僅かに名残惜しい、という気持ちがあった。


 荷物をまとめ終わって立ち上がると、美空は立ち眩みを覚えた。まだ全快というわけでもないらしい。恐らく、まだ寝ていた方が良いのだろう。


 だが美空は、すぐにここを立ち去るつもりで歩き出した。


 ここにこれ以上いたら、もっと躊躇することは、言うまでもなかったから。




 窓から、陽の光が部屋に振ってきていた。部屋にあるハウスダストが、白く宙を舞っていた。


 気付けば、随分と馴染んだこの部屋の景色。

 ただその景色も、今日でもう、見納めか。




 誠二という男と……。




 二人で過ごしたこの部屋の景色を目に焼き付けて……。




 美空は部屋を出た。




「あれ?」


 部屋の外の廊下。




 そこに、誠二はいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る