退職の日
引っ越しも終えて、美空との二人生活にも慣れ始めて、遂に誠二の最終出社日がやって来た。
良く晴れた日だった。先日まで、内心で今日に向けた不安を少し抱えていた誠二だったが、お日様の光も浴びて、少しだけ気持ちが晴れ始めていた。
「……今日はさすがに、早く帰ってくるよね」
「さすがにね」
誠二は苦笑した。退職日まで日が変わるくらいの残業は、そうはしないだろう。ただ今までの仕事ぶりを考えると、確かに自分でもそれを一瞬疑いそうになるのだった。
「じゃあ、美味しい夕飯用意しておくから」
「……うん。ありがとう」
美空とそんな簡素な挨拶をして、誠二は家を出た。
電車を乗り継いで、会社に辿り着いたのは、会社に毎日勤務していた時であればあり得ないような始業ギリギリの時間だった。
それでも、最早始業ギリギリの時間であれ誠二を咎めるような人は誰もいない。
誠二は会社で、まずは自分の部署へと立ち寄った。
そしてその頃、始業を告げるチャイムが鳴った。立ち上がる先輩社員に交じって、誠二も立ち上がった。
上司が、いつも通りの簡素な挨拶を口走り……そして、次は部署の人間達がいつもの朝の定例報告を済ませていく。
最後に上司は、今日で会社を去る誠二に挨拶するように命じた。もっと文句だったりを言われると思ったが、意外にも挨拶含めて、この場で何かを言われるようなことはなかった。
それは上司以外もそうだった。辞めていき、既に休暇の消火に入っていた誠二をまるでもう会社の人間ではないと言わんばかりに、冷めた態度で誠二の挨拶を聞き入れた。
意外とあっさりとした最後だったが、定例報告の場では各員が誠二の仕事を引き継ぎ、客先からのクレーム対応に追われていることは聞いているだけで誠二でもわかっていた。ただ、当時はそれを一手に引き受けていた誠二からして、まだまだ各員の状況は生温いなと思う程度の物だった。しかし冷や汗を掻いている連中からして、まもなく誠二はあの朝の報告会を受けている余裕がないくらい、各員が追い込まれているんだなと言うことに気付くのだった。
誠二の抜けた穴。それを埋める追加要因はまだいないらしい。しばらくは各員の繁忙具合はこんな感じになるのだな、と誠二はわからされた。
それから誠二は、ずっとお世話になったパソコンから最後の挨拶のメールをお世話になった連中に送った。Bccで、たくさんの人にメールを入れた。関わった人が多くて、本当に大人数にメールを送った。
ただ、メールに返事が返ってくることはなかった。一人二人からは今後の活躍を祈られるようなものと思っていたが、それもなかった。
もう少し、揉めるようなものだと思っていた。
たくさんの仕事をこなし、たくさんの失敗をし、そうしてそれを途中で投げ出して会社を去る。その選択をした時点で、冷やかしだって揉め事だって誠二は厭わないつもりだった。
だから、今の結果は拍子抜けする思いだった。悪いわけではない。この会社から完全に手を切るため、これほど嬉しい結末はない。
しかし、やはり誠二は思ってしまうのだった。
それならば、果たして自分はどうしてあれほど辛い思いをしてまで仕事をこなしてきたのだろうか、と。
ただまもなく、誠二は自分の考えが現金なものだと気が付いた。それだと、メンヘラ気質な構ってちゃんと何も変わらない。
誠二はただ、生きるために今の選択をしたのだ。
だから、それならそれで、もう良いじゃないか。
誠二はそう思うことにした。
今日も午前中しか、誠二は会社にいるつもりはなかった。パソコンをシャットダウンして、あいさつ回りもすることなく、人事に作業着を返して、さっさと帰るつもりだった。
「おっと」
「あ、すいません」
人事の元に向かう途中、誠二はいつか誠二の図面を受け取ってくれなかった加工責任者と遭遇した。手にはノートパソコン。恐らく、これから打ち合わせでもするのだろう。
「おう、三浦か」
加工責任者に対して、誠二は厳格そうな人、と言う印象を受けていた。事実、加工責任者は承認印のない図面を受け取らないくらい、ルールに厳しい人。誠二の印象は何も間違ってはいない。
しかし、これから打ち合わせで忙しい身の加工責任者の声は、どこか朗らかだった。
「お疲れ様です」
誠二は頭を下げた。なんとなく、ここで彼とは会いたくなかった。
「お疲れ。……そう言えば、今日が最終日だったな」
「はい。あの……今までお世話になりました」
少し、加工責任者は逡巡していた。頭を下げる誠二に、何も声をかけることはなかった。
「三浦、今晩は予定あるか?」
「え?」
意外な人からの呼びかけに、誠二は少し戸惑った。
「予定、どうだ?」
「……ないです」
そう言ってから、誠二は美空が夕飯を作って待っていてくれることを思い出した。
「……予定、あるか」
加工責任者は誠二の顔から何かを読み取ったようだった。
「じゃあ、軽くバーで一杯やろう」
しかし、どうやら譲る気もないらしかった。
「……それくらいなら」
「ああ」
穏やかに、嬉しそうに、加工責任者はメモ帳に走り書きをして、びりっと破って誠二に手渡した。
「ここのバーに、二十二時に」
中々に遅い時間。恐らく、加工責任者もそれなりに忙しい合間を縫って来てくれるつもりなのだろう。
「はい。ありがとう」
「じゃあな、これから打ち合わせなんだ。悪いな」
「……いえ」
加工責任者は、誠二の元を去っていった。
しばらくその場で放心した後、誠二は人事へと向かった。
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