お早い帰還
人事の元に出向き、社宅の鍵、作業着を返還し、誠二は会社を後にした。帰り際、ふと後ろにある社屋を振り返った。
四年近く、この会社にお世話になった。悪いこと良いこと含めて、お世話になった、と言う事実は変わらない。
ようやくこの会社を去る実感が誠二は湧き始めていた。しかし、去ることを躊躇うことは一切なかった。
それが結局のところの、誠二のこの会社に対する想いの全てだったのだろう。
新居に戻るのは、以前までの社宅と違い一時間くらいを要することになった。辿り着くと、仄かに香ばしい匂いが室内から漂っていた。
「ただいま」
扉を開けると、美空がいた。いつも通り、料理をしていた。
「あ、おかえり」
誠二の帰還に、美空は料理をする手を止めて玄関までやって来た。
しばらくして、美空は微笑んだ。
「早かったね」
「……うん。そうだね」
少しだけ誠二は、可笑しい気持ちになっていた。遅かったね、とは何度も言われたのに……早かったね、と言われた機会は数少ない。そんな事実に気付いたからだ。
そして当分、誠二が深夜帰りするようなこともない。
そう気付いたから、嬉しさからか、ほんの少し漂う寂しさからか、誠二は苦笑していた。
昼ご飯は美空の用意したご飯を食べるつもりだったが、少しばかり帰還が早かった。まだ、美空の調理は終わっていなかった。
誠二もそこまで腹は減っていなかったから、美空を急かすようなことはしなかった。
ただ手持ち無沙汰になったから、誠二はリビングで寛ぐようにテレビを点けた。
小さい頃は、基本的に昼のワイドショーは学校にいるから見れなかった。たまに熱を出して休んだ時など、母親と一緒にテレビを見てご飯を食べたりしたことがあった。
あの時は他の人が学校で大変な中、少しだけ悪いことをしているみたいな気分になりつつ、でもそれが楽しかった。
誠二はそんな童心の気持ちを思い出しながら、テレビをぼんやりと見ていた。
テレビでは昼のニュースが丁度流れていた。
世界のどこかでテロがあるだとか、日本のどこかで刃傷事件があっただとか、のんびりしている誠二とは裏腹に、世界はいつも通り鬱屈とした時間が流れているそうだ。
世界情勢。国内情勢にすっかり疎くなっていた誠二は、新鮮な気持ちでニュースを見ていた。干からびたスポンジが水に含まれた時のように、たくさんの情報が誠二の脳内にインプットされていった。
気付けばすっかり、ニュース番組に見入っていた。
ただ、丁度誠二が名前も知らない有名ミュージシャンの失踪、だとかくだらないニュースが報道されたタイミングで、テレビは消された。
見れば、テレビを消したのは美空だった。
「ご飯出来たよ」
「……ああ、ありがとう」
テレビのリモコンを、誠二は探した。見ればそれは、美空の手にあった。当然だ。テレビは美空が消したのだから。
美空は、不思議そうに首を傾げていた。
少しして、美空は気付き、ふくれっ面になった。
「駄目だよぅ」
誠二を律するように、美空は続けた。
「ご飯の時、テレビは見ちゃいけません」
まるで、母親に叱られるようなことを、美空に言われてしまった。
「あはは。ごめん」
誠二は、素直に謝罪した。
昼食は、静かに慎ましく済まされた。
テレビがなかったから静かだった。ただ、二人の会話がなかったのは食事時だから、と言うわけではない。夕飯の時とかは、美空は率先して誠二に話しかけてくるくらいなのだから。
二人が何も話さなかった理由。
それは、何かを話さなくても居心地が悪くなかったから。
一月以上、二人は同居を続けている。ようやく、二人は互いがいるこの状況に慣れ始めているのだった。だから、余計な言葉など、不要と思うようになっていた。
だから、誠二は今、すっかりあの会社の事など忘れて、昼食を美味しく頂けていたのだった。
ただ、ようやく腹も満たされ始めた時、誠二は思い出した。
「あ」
「何?」
ついさっきの話なのに、誠二はすっかりと忘れていた。
「……あー、今日、夕飯は要らない」
「え?」
そう言ってから、誠二は思った。
「いや、やっぱりいる。……えぇと」
誠二は思った。加工責任者は誠二をバーに誘ったわけだが、果たしてご飯はどうするのだろうか。恐らく、夕飯を食べずにそのまま彼はバーに来るつもりだろう。
すきっ腹に酒を飲むのは、酔いがすぐに回るから誠二は嫌いだった。
「どっち?」
戸惑う誠二に、美空は小首を傾げて尋ねた。
しばらく考えて、
「ごめん。やっぱりいる」
誠二はそう答えた。今日が終われば完全に他人となる加工責任者に、そこまで気を遣う必要はないと思った。
「いいの?」
「うん。……ただ、夜は少し家を空ける」
「会社の人に誘われた?」
「うん」
「……大丈夫?」
美空が案じたのは、また誠二が辛い思いをしないのか、とそんなことだった。
「多分。送別会で相手の気を悪くさせようって人、そうはいないだろうし」
思えば、誘われたのは加工責任者のみだったが……それは送別会と呼べるのだろうか。今更ながら、送別会に大々的に招待されない辺りに、誠二はあの会社での自分の地位を実感させられ、少し嫌な気持ちになった。
「……行かない方が、良くない?」
「いや、行くよ」
美空に余計な心配をさせたことを申し訳なく思いつつ、誠二はそう宣言した。
あの会社と完全に縁を切る。それに、送別会を行ってもらうことは必ず必要だろう。今を逃して、また別のタイミングでそんなことをされでもしたら、余計面倒だ。
そう思いながら、誠二は昼食の食器をシンクに持って行った。
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