静かなバー
「悪いな、こんな時間から」
加工責任者に呼ばれたバーに向かうと、彼は既に店内にいた。グラスを片手に、一人虚ろな瞳で酒を飲んでいた。
誠二が真っすぐ近づくと、加工責任者はこれまで仕事中には見たことがない穏やかな笑みを浮かべて誠二にそう言った。
「いえ……お一人ですか?」
店内に、加工責任者以外の同僚の顔が見えなかった。何なら、店主であろう人物と加工責任者以外、店内には誰もいなかった。
アコースティックピアノが奏でるジャズの音色が、静かな店内をより穏やかにさせているようだった。
「ああ。……女でも見繕っておいた方が良かったか?」
「いえ、そんな」
そんなことされたら、美空に何を言われるかわからない。多分、怒ることはないだろうとは思っていた。しかし、美空のことだから、誠二の恋を応援するだの言って、部屋から出て行ってしまうかもしれない。
誠二としては、それは何としても避けたい事態ではあった。どうしてかは当人もわからない。
「まあ、突っ立ってないで座れよ」
加工責任者に促されるまま、誠二は彼の隣に座った。
思えば、こうして加工責任者と腹を割って二人きりで話す機会と言うのにはこれまで恵まれてこなかった。
上司と二人きりの食事は大変だった。ただひたすら自慢話をする上司に、媚びへつらうような苦笑を浮かべておだてるだけの時間だった。
隣に座り、店主に注文を促された。
「xyzで」
あまり酒を飲まない誠二は、甘めなカクテルが好きだった。だから、それを頼んだ。
「アハハ。退職日にそれか。まさに終わりの酒だな」
それを楽しそうに聞いていたのは、加工責任者だった。
誠二は苦笑した。馴染みづらい人、だとはずっと思っていた。仕事の時は真面目だし、堅物だし、怖いとさえ思っていた。そんな彼から、こんな笑顔が飛び出すだなんて、予想だにしていなかった。
しばらくして、カクテルを渡され、二人はグラスをコツンと軽くぶつけて乾杯した。
「長い間お疲れ」
「いえ……」
当たり障りない発言をしようと、誠二は心掛けていた。退職したとはいえ、あの会社に思うところは色々ある。でもそれを今更言って、波風を立てる必要は最早ない。
「こうしてお前と酒を飲むのは初めてだな」
「そうですね」
「お互い、忙しかったからなあ」
シミジミと言う加工責任者に、誠二はやはり今の彼が仕事の時と違う、とそう思わされるのだった。いつもの彼から、そんな軽はずみな台詞はやはり、似合わない。
「どうだ。仕事辞めれて」
誠二は体をびくっと揺すった。一番聞かれたくない話だったが、思えば退職する人間にする話として、それは当然聞きたくなる内容だった。
「どうでしょうね」
波風を立てたくなくて、誠二は苦笑して誤魔化した。
「誤魔化すなよ」
しかし、どうやらお見通しらしかった。
「清々するって、顔に書かれてたぞ。さっき職場で会った時」
誠二は当時の自分の態度を呪った。しかし、まもなく終わりを迎える地獄を前に、気が緩まない人がどこにいる。
「すいません」
素直に、誠二は謝罪した。辞める時、誠二は自部署の人間にも他部署の人間にも、仕掛り途中の仕事をたくさん押し付けて出て行った。内心面白くないと思われていても、それは当然だった。
「別に謝る必要なんてねえよ」
しかし、加工責任者の言葉は誠二の意にそぐわなかった。
「むしろ、こちらこそすまなかった」
そして、加工責任者はそう謝罪の言葉を口にした。
「……え」
予想していなかった展開に、誠二は手が止まった。
一つくらい文句を言われると思っていた。たくさんの仕事を投げ出して、会社に迷惑をかけて、去り際は考えうる限りでも、最悪なものだった。
だから誠二は、加工責任者に呼ばれた時点で、いつか上司に言われたように責任感はないのか、とそう叱責されると思っていた。
叱責されようが、別に構わないと思っていた。
むしろ誠二は、自分の犯した行為を鑑みると、そう叱責してくれた方が気楽だった。地獄を知る誠二だからこそ、そう思っていた。
誠二は、だからこそ加工責任者の言葉に驚いてしまった。
「お前がオーバーワークなのは、傍目から見てもわかっていた。管理者の立場であるにも関わらず、俺は結局お前を辞めさせるまで追い込んでしまった」
誠二は、真剣な加工責任者の言葉に割り込むことは出来なかった。
「……皆わかっていたんだ。加工現場も。測定現場も。品証も管理も生産技術も、お前の部署の人間だって。お前がオーバーワークなことは、皆わかっていたんだ。でも、助け舟を出せば自分も同じ目に遭わなければならなくなる。だから皆、お前から距離を置いた。お前を孤立させて、お前を一人追い込んだ。若手社員は怒鳴られて無理させて仕事を覚えるもんだからって綺麗ごとを並べて誤魔化し続けた」
それはまるで、トカゲのしっぽ切りのようだと誠二は思った。
「それを謝るべきだと思った。だから、今日こうしてお前に来てもらったんだ」
酷い話だと誠二は思った。
所詮、会社にとって自分は使い捨ての駒に過ぎない。そのことは随分昔からわかっていた。しかし、それを相手が認識しているとまでは誠二は思っていなかった。
そして、認識された上で認識しているからこそ誠二の状況を見て見ぬふりをしてきたからこそ、酷い話だと余計に思った。
「……別に構いませんよ」
しかし、文句を言う気は意外にも沸いてこなかった。
「どうせ、遅かれ早かれあの会社からは去っていたと思うので」
休業日の施行に始まり、無理難題な原価改善検討。その他様々なあの会社の経営状況を見て、誠二はあの会社の将来性の不透明さをとっくの昔からわかっていた。だから、暇なら暇であの会社から去る選択をしていたことは明白だった。
「それに、辞めた今となっては、今更な話だ」
そういう謝罪をするのなら、そもそもタイミングが遅すぎるとも思った。
……それに、そもそも、だ。
「そもそも、あなたのせいで僕はあの状況に貶められたわけではない」
だからこそ誠二は、加工責任者を責める気にはならなかった。
諸悪の根源は間違いなく、あの部署。進捗管理をした気になっている上司に、業務割り振りもいい加減な上司に。助け船を出そうともしない同僚に。あの部署に、誠二は潰されたと言っても過言ではないのだ。
「……むしろ、ありがとうございました」
そうして、怒りの矛先のことを思い出したら、昂った誠二の気持ちは少し落ち着いた。落ち着いたら、思い出したのはいつかの加工責任者の行動だった。
「承認印のない図面を、受け取らないでくれて」
承認印のない図面。
深夜帯。どうしても今日中にそれを回す必要があったが、生憎それが書きあがる頃には誠二の上司は帰宅していた。誠二は仕方なく、承認印のない図面のまま加工スタートをお願いするが、加工責任者は頑としてそれを受け取ろうとはしなかった。
加工機を勝手に使ったり、自分の測定結果を客先に報告したり、部署を跨いだ作業を誠二は何度もしてきた。
辞めた今だからこそ、そう言う行為一つ一つの危うさを誠二は感じていた。部署を超えた作業は、全ての責任を部署、会社としてではなく、誠二に集める要因になりかねなかった。
承認印のない図面の件もそうだった。
もし、あれが後々客先クレームに繋がっていたら、誠二の上司はどんな反応をしたのか。
どうして承認のないまま加工を始めた。誰の許可でそんなことをした。誰が、そんなことをしろと教えた。
上司はきっと、自分の身可愛さで自分の正当性を訴えた。そして、誠二を責めた。
そうならない代わりに客先からたくさんのクレームを頂いたものだが、それでも正しさとは何か、を誠二は加工責任者から教わったのだ。
だから、誠二はお礼を言った。
穏やかな音色を奏でるジャズが、しんとした二人の心を徐々に満たしていった。
しばらくして、二人は苦笑し合った。
「……あなたは、あの会社辞めないんですか?」
誠二は、加工責任者に尋ねた。誠二でもわかるのだから、管理者である彼ならより一層この会社の先行きの不安さを実感しているはず。それでもなお、逃げ出さない理由は何なのか。
「辞めないよ。もう、年齢も年齢だからな。家庭もある。俺が食わしていかないといけないんだよ、家族を」
「……なるほど」
「お前こそ、次の会社は決まっているのか?」
痛いところを突かれて、誠二は再び苦笑した。酒の力もあって、いつもより気持ちは少し朗らかだった。
「いいえ、まだです」
「そうか……。まあ、大丈夫だ」
「根拠のない自信ですね」
「根拠がないもんか。お前は色々出来る。若いのに気概もある。きっと、良い会社に巡り合えるよ」
少し、誠二は嬉しかった。
日頃の業務態度を堅物の加工責任者に認められていて。
「それに、俺もこれでも若い頃は会社を転々としたもんだ。なんだかんだなんとかなるよ」
「最後があの会社と思うと、素直にそうですねとは言えないです」
一瞬納得しかけて、誠二は苦笑して言った。
「確かになあ」
加工責任者は同意した。
少しして、加工責任者は俯いていた。
「お前、恋人は?」
「え」
「ああ、悪い。……答えたくないなら構わない。ただ、もし恋人とか、守るべき人がいるなら、絶対にその人のこと、大切にしろよ、と思ってな」
釈明するように、加工責任者は早口に言った。
「男ってのは辛い生き物だ。男女平等と言われる今の世の中だが、結局家庭を守っていくのは、妻と子供を養っていくのは、男だ。例外もあるが、大体そう。それが重荷になることもあるかもしれない。でも、それでも何かが覆ることはないんだよ」
誠二は加工責任者の話に口を挟まなかった。言いたいことは、なんとなくわかるから。
「だから、もしお前に恋人がいるなら……その人を守れるよう、妥協するなよ、とそう言いたかった」
大切な人。
誠二は、さっきの加工責任者の言葉を思い出していた。あの先行き不安な会社を辞めないのかという誠二の問いに対する加工責任者の回答だ。
大切な人を持つこと。
それは時に、先行き不安な道だとわかっていても、逃げ出すことを許さない原因になりかねない。泥舟に乗り続ける原因になりかねない。
でも、誠二は思う。
結局それは結果論でしかない。
大切な人が傍にいること。
その意味は、茨の道からの逃げ道を塞ぐことでもなければ、悪夢を助長させることでもない。
誠二はそのことを知っていた。
誠二はそのことを、今部屋で待つパパ活女子高生に、美空に……教えてもらっていた。
「……恋人は、いないです」
でも……。
「でも、大切な人なら、います」
失いたくない、大切な人。
そんな人が傍にいる。
誠二は今、幸せだった。
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