滞在四日目の朝

 少女の名前も聞かぬまま、三日の時間が過ぎた。

 その間の誠二と言えば、先日までと同様、早朝に会社に出掛けて深夜に帰宅するだけの時間を送っていた。自らのことをロボットのようだと思っていた誠二だが、最近ではその気が強まっていて、最早自分でも笑うことしか出来ない惨状だった。


 ただ、そんな誠二でも微かに変化したことがあった。


 ようやく、誠二は少女の存在を認識したのだ。少女が透明人間だったというわけではない。ただ誠二にとって少女は、自分から全てを奪ってくれる存在。会社に行っている間に、自分の僅かな財産を持ち逃げしてくれる存在。自分の生きる希望、意味を奪ってくれる存在だったから、それは最早透明人間と同じようなものだったのかもしれない。


 昨晩、少女を家に匿って実に二日経ち、ようやく誠二は少女が自分の望むような存在ではなかったことを悟ったのだ。


 少女を匿っているものの、誠二と少女の関係は僅かな変化もなかった。

 朝、誠二が家を出る時には少女は目覚めていて。

 深夜、誠二が帰ってくる頃まで少女は起きていて、誠二に夕飯を振舞ってくれる。

 会話する時間と言えば、夕飯を食べている間と、それから寝る間でのごく僅かな時間。交わされた会話は、とても生産的な会話だったとは言い難かった。生返事を繰り返す誠二と、まともな返事が来ないことがわかっているのに、懲りずに話続ける少女。


 いつかはこんな惨状の自分に愛想を尽かして、さっさと持ち逃げしていくことだろう。


 最初はそう思っていた誠二だったが、毎日帰ってくる度、少しずつ整理整頓されていく部屋を見て、ようやく考えを改めたのだった。

 もしかしたら彼女は、本当に自分と結婚するつもりなのではないのだろうか、と。




 四日目の朝がやってきた。

 昨晩も、誠二が部屋に戻ってこれたのは日を回った後、深夜二時過ぎだった。

 その時間まで、少女は起きていた。小さな机に両肘を突き、無表情でテレビを見ていた。


「あ、おかえり」


「うん」


 疲れから、誠二の口から気の利いた返事が漏れることはなかった。

 リビングに行き傍らにリュックサックを置いて、誠二はさっきまで少女が座っていた場所に腰を下ろした。ここ二日、誠二が帰ってきた際に、少女は誠二にそこに座るように促す。今日も言われるだろうから。言われるのさえ面倒だから、誠二はさっさとそこに腰を下ろしたのだった。


「夕飯、食べる?」


「うん」


 初めての日のように、弁当を買って帰ってくることはなくなった。これこそ、誠二が少女の存在を認識し始めている証拠と言っても過言ではなかった。

 誠二が帰ってくる時間は、夜遅いことだけは固定で時間自体は流動的。だから少女は、いつも誠二が帰ってきてからコンロの加熱を再開する。生憎、二人は連絡先の交換をしていない。


 香ばしい香りが漂い始めた頃、誠二は強烈な睡魔に襲われていた。


 テレビから漏れるワイドショーの出演者の声が少しずつ遠くなっていくのがわかった。



 次誠二が目を覚ましたのは、朝。いつもの時間。

 気付けば寝ていたらしい。

 少女をこの部屋に匿って以降、誠二は結局一度だって彼女の手料理に口を付けた試しはなかった。


 いつもは誠二が床に敷いた布団で寝ているのに、今日は自分がベッドで寝ていることに彼は気付いた。


 見れば、布団では少女が眠っていた。静かに寝息を立てながら、縮こまるように体を丸めて眠っていた。


 珍しいな、と誠二は思った。

 この少女をこの部屋に匿って以降、少女はいつも誠二より先に起きていたし、いつだって誠二が帰ってくる深夜にまで起きていたから。


 今更になって誠二は、少女が自分に付き合って随分と辛い生活習慣で数日を送っていたことに気が付いた。


 今晩帰ってきた時に、誠二は少女に、あまり無茶はするな、と指摘をする決意を固めたのだった。

 そんなことを考えながら、電動カミソリでひげを剃って、朝風呂を浴びて、まもなく家を出た。


 会社に着いたら、まず何からすれば良いだろうか。


 時間が有限なことが妬ましい。


 誠二毎朝は、どこまでも嫌いな仕事のことなのに、通勤中に仕事のことを考えてしまう。

 口うるさい上司は、誠二によく言う。


『人に振る業務は先にやる。自分でやる業務はその後でやるんだよ』


 そう言って、誠二の仕事のやり方に文句を言っては、彼の業務進捗を邪魔していく。

 自分の業務をしてから他人に振る業務をすると、自分の業務を進めている間、他人に振る業務がスタートしないことになるから。だから、そうやるのが鉄則だと口うるさく言われるのだ。


 その言葉自体は正しいと誠二は思っていた。


 だがしかし、他人に仕事を振っても、この会社の連中は自分の頼んだ業務を素直にやってなどくれない。振っても振らないでも、結局適当な理由を付けて自分に仕事が返ってくる。

 なんでも屋の誠二は、これまでそんな会社の連中のせいでたくさんの仕事をこなしてきた。


 図面を書いて、加工機を動かして図面通りに部品を加工して、金型を組んで。成形して。測定して。見積を作って。メーカーから注文書をもらって。稟議書を作って。謝って。謝って。謝って。


 なんでも出来るようになれ、と誠二に言ったのも、そう言えば今の上司だったなと彼は思い出していた。資格を持たないのに色んなことを実践して、それで良いのかと思いつつ常態化した結果が、誰も手を助けてくれなくなった現状なのだと誠二は気が付いた。


 セミの煩わしい泣き声を聞きながら、ダブルスタンダードな上司の言い振りへのやるせなさを誠二は感じていた。


 そしてふと、さっきまで自分は今家で寝息を立てている少女に何を言おうとしていたのだったか、と誠二は思うのだった。

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