滞在四日目の夜

 その日は一段と激務な一日だった。

 朝会社に行って製図していると、中国の始業時間より少し早い時間に外線電話が鳴り響いた。相手は、先日日程遅延を連絡したメーカーの営業だった。


 いつになったらまともな部品が出来るんだ。

 こっちは金型費用として数百万円の投資をしている。

 この試作がこけたら、お前は責任が取れるのか。

 樹脂部品一つまともに作れないなんて、お前は一体何年この仕事をしているんだ。


 そんないつも通りの文句から人格否定の言葉をまず頂き、それから相手は誠二の上司を出すように要求したのだった。どうやら本当に日程が切迫しているらしいことに、長年の勘から誠二は悟っていた。こういう試作のスケジュールとは、メーカーから外注に振る際は、当然何日かのマージンを取るものである。だから数日の遅れなら大抵遅れを取り戻せるものだが、これだけ言うのであればそういうことなのだろう。


 誠二は、言われた通りに上司に電話を取り継ぐのだった。

 最早上司は何かと付けて誠二へ怒鳴るのだから、怒鳴り事が一つ増えようが構わなかった。


 しばらく上司の座席から上司の謝罪の声が聞こえてきた。上司の申し訳なさそうな演技に、誠二は特段感心は示さなかった。ただ思っていたのは、メーカーの始業時間早々に電話して状況を説明しようと思ったが、先手を打たれたことは失敗だったなという感想だけだった。言われるのと言うのでは、相手の心象は当然違うのだ。


 しばらくの電話の後、誠二は上司に呼ばれた。


『三浦、このメーカーの進捗はどうなっているんだ』


 上司は言った。

 誠二は、日報に毎回リスク案件として記載している案件で、かつ報告も怠ったことがないのに、彼がどうして怒っているのか理解出来なかった。


 しばらく状況を説明した後、上司は誠二にすぐに改善までのスケジュールを作成するんだと迫った。そんなのとうの昔に作っているから、誠二はそれを彼に見せた。上司は激昂した。それじゃ遅い、と。


 結局、二度のスケジュール修正の結果、加工も成形も、どう現場と調整して良いかわからないめちゃくちゃな日程が出来上がった。上司はそれを受け取ると、どうやらメーカーに向けてメールで発信したようだった。

 メーカーが激昂しているから、と現場へ向けてメールも送ったようだ。それで目の色を変えて現場も調整を始めるのだから、非常に質が悪い。


 上司はその後も愚痴っぽく逐一誠二に状況確認言う名のを文句をつけ続けたのだった。

 どうして図面を回せと言わない、だの、俺が現場と調整すれば一発だったじゃねえか。なんで頼らない、だの。


 図面はずっと、上司の棚に埋まっていた。早く回したいと言っても一向に回してくれなかった。

 自分では一向に現場が進まない状況も相談していた。フォローしてとも言っていた。


 が、一向に動いてくれなかった。


 ただどうやら、調整が足りなかったのは誠二の方らしい。

 ただ、憤りのようなものは一切なかった。仕事が終われば、それでよかった。


 深夜二時。

 いつもなら帰路に着いている時間に、現場の迅速な動きもあって成形が行われた。形状を見る限り、何とかなりそうだった。

 後は明日測定し、問題なければ試作分の数取りをするだけ。


 そう言えば、かの中国メーカーは未だ金型の費用も試作の費用も安くしろ安くしろ、と言うだけで一向に注文書をくれないが、大丈夫なのだろうか。

 上司指示で、稟議書は金型を固定資産とすることで回している。ただ、量産で回収出来るエビデンスがあるわけではない。


 まあそれが表沙汰になった頃には、それも結局は誠二のせいになるのだろう。


 悪者はいつだって行動を起こした人間なのが、この会社の掟だ。


 深夜四時に、誠二はようやく帰路に着いた。

 家に着いて一時間仮眠して、また明日の仕事に出なければならない状況だった。明日は部品の測定結果を見ないといけないから、休みを取るわけにもいかない。


 俯きながら、道中を歩いていた。


 そう言えば、朝少女に何かを言おうと思っていたはずだが、当然のように誠二はもうそのことを覚えてはいなかった。


 明日何をするかの整理を脳内でしながら、疲労とドライアイで霞み始めた視界に鬱屈としながら、目を瞑って顔を上げた。

 しばらくして目の痛みも治まり、社宅にも辿り着いた。




 そして、誠二は驚愕した。




 ドライアイの目の痛みも忘れて。

 疲労で重い体のことも忘れて。




 ただ、驚愕した。




 ドライアイで目が霞み、見上げた。見上げた先にあるのは、誠二の部屋。




 ただ寝るだけのために存在する部屋。

 いや、かつてはそうだった部屋。




 今では、他者と共有するようになった部屋。




 少女が待つ部屋。




 明かりが、灯っていた。




 誠二の部屋に、まだ明かりが灯っていたのだ。




 気付けば早足になっていた。

 早足で、エレベーターの上ボタンを連打して、自動で開いたエレベーターに急いで飛び乗った。


 チンっと軽快な音と共に、扉が開いた。


 一目散に、誠二は自室へと向かった。




 鍵を回して。




 扉を開けて。




「あ」




 小さ目の机に両肘を突き、テレビを見ていた少女に驚いたのだった。


 


 少女は、嬉しそうだった。

 家主の帰宅を嬉しそうにし、立ち上がって駆け寄ってきた。




「おかえり」




「……あ、うん」


 誠二は呆気に取られていた。なんと声をかけて良いか、わからなかったのだ。


「遅かったね」


「……うん」


 頷いて、朝決意したことをふと思い出した。


「こんなに遅い時間まで起きているの、体に良くないぞ」


 だから、寝てていいんだぞ。

 そう言ったつもりだった。




 少女は、摩訶不思議そうに小首を傾げていた。




「お互い様でしょ?」




「……確かに」


 納得して、誠二はそうじゃないと首を横に振った。次の句は中々浮かんでこなかった。


「……それよりも」


 そして、戸惑う内に話し出したのは少女の方だった。

 少女の深刻そうな顔つきに、誠二は再び呆気に取られたのだった。何かトラブルに巻き込まれたのだろうか、と考えていた。


「……ごめんなさい」


 少女は、深々と誠二に頭を下げた。

 やはり何かあったららしい。何があったのか、誠二は一向に見当が付かなかったが、聞く前から既にどうでも良いと思っていた。


「いいよ、別に」


 だから、誠二はそう言った。元々誠二は、少女に問題を起こして欲しいから匿ったのだから。むしろ、好都合だった。


「……駄目だよ」


「良いって」


「……絶対、駄目」


 そう言う少女の瞳から、少女の決意の固さのようなものを誠二は感じ取っていた。


 そこまで。


 そう言うまで、少女は一体何を仕出かしてしまったのか。

 怒る気はなかったが、そっちに誠二は興味が湧き始めていた。


「ごめんなさい」


 少女は、もう一度謝って……。




「今朝、起きれなくてごめんなさい」




 誠二が思っていたよりも……ずっとずっとしょうもないことで、謝罪した。


「え?」


 意図が掴めず、誠二は聞き返していた。


「今朝、起きれなかった」




 少女にもう一度言われて、誠二はこの部屋に少女を匿ってから今朝以外、彼女がずっと誠二の見送りをしてくれていたことを思い出した。


 それを、気にしていたのか。


 開いた口が塞がらなかった。



 それは、呆れたから。



 誠二は彼女に、トラブルを求めた。持ち逃げ。近隣住民とのいざこざ。少女のトラブルが波及する先は、匿った誠二に不利益が被ることばかり。不利益を被れば、誠二は一層、死へと近づく。




 ……だから、誠二は呆れた。




 まるで、自分の妻になったかのように……甲斐甲斐しく献身的なことを言う少女に、呆れてしまったのだ。




 しかし誠二はまもなく、自分の心に呆れ以外の感情が芽生えていることに気が付いた。

 



「さっきも言ったろ」




 誠二は、それを認めたくなかった。




「夜遅くまで起きて待っている必要なんてない。体に悪いから寝てなさい」


 だから、突き放すように、そう言った。


「駄目だよ」


 しかし、少女は頑なだった。


「どうして」


 誠二の問いに、


「だって、あたしあなたと結婚するんだもん」


 少女は、そう答えた。




「夫を支えるのが、妻の勤め」




 ……そう言う少女に、




「……アハハ」




 誠二は、乾いた笑みが止められなかった。


 就職して以降、ずっと味わったことがないような……幸福感のような、充足感のような気持ちが、誠二を襲っていた。




 ただ彼らは、未だ互いの名前すら知らない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る