朝起きて
誠二が目を覚ましたのは、翌日の朝四時。
早朝出勤する彼はいつも決まってこの時間に目覚める。この時間に目覚めて、朝ご飯も食べずに家を出て、食欲も大して湧かぬまま一日を過ごす。それが誠二の生活のルーティーンだった。
ドライアイで乾燥し痛む目を開けることが、誠二には辛抱たまらなかった。細目で状況を確認し、誠二は今自分が身に覚えもない一室にいることに気が付いた。
鞄はどこだと、リュックを探した。
ベッドから起きて、テレビの脇の机に置かれた鞄を開けて、見つけた目薬を目に差した。
染みる目薬の痛みに耐えながら、ようやくまともに開くようになった目を凝らして、状況を確認した。
ダブルサイズのベッド。
さっきまで誠二が寝ていたそのベッドに、誠二は違和感を覚えた。自分が出たというのに、明らかに誰かいるかのような人の膨らみがあったのだ。
「ああ、そうか」
誠二はようやく昨晩の自棄になった自分のことを思い出したのだった。そして、自らに呆れたわけでも馬鹿だと思ったわけでもないのに、どうしてかむしゃくしゃして頭を掻いていたのだった。
一先ず、誠二はシャワーを浴びた。熱湯を頭から被ると、ヤキモキした気持ちが多少は軟化されたが、結局現状は何も解決されていないことを思い出すと途端に辟易とした気分になるのだった。
風呂場から出て、昨日も着ていた衣服を身に纏い、この部屋からもさっさとチェックアウトしてしまおうと思った。
「おい、起きろ」
少女を置いて行く選択肢は、誠二の中には不思議となかった。
眠そうな少女が体を起こした。昨晩、誠二が覚えている少女の記憶は、確か風呂上りでバスタオル一枚の状態のものだった。その記憶が鮮明に蘇った理由は、今もかの少女があられもないその姿をしていて、バスタオルがずり落ちそうになっているからだった。
「きゃっ」
昨晩は見ず知らずの自分を誘っておいて、いっぱしの羞恥心は備わっているらしい。そのことに誠二は少しだけ可笑しいと思ったが、笑みが浮かぶことはなかった。
「会社に行く。出るぞ」
「……あ、うん」
少女は、イマイチ誠二が何者なのか検討が付いていないようだった。成り行きに身を任せるように曖昧に頷いて、誠二がリュックサックを担いだところで昨晩の出来事を思い出したようだった。
「あ、あの……着替えるから、洗面所に行ってくれない?」
「わかった」
言われるまま、誠二は洗面所へとリュックサックを持って入った。
「いいよ」
少女に呼ばれ、そこを出るのには十分とかからなかった。
誠二はその後、ホテルをチェックアウトして一旦自宅に戻ったのだった。
理由は、昨日の姿のまま出勤したくないということも勿論あったのだが、一番は家出中らしいこのパパ活少女を匿うためだった。
彼女を匿うメリットなど、誠二には一切ありはしなかったが、一夜明けてもなお自暴自棄な気持ちからして、いっそのこと彼女に家の全てを持ち逃げされてしまいたいとそう思っていたから、彼女を匿おうと決めたのだった。
「じゃあ、行ってくるから」
一通り、家の中の設備を説明した。物欲の少ない男だったから、誠二が部屋内を説明するのには十分と時間を要さなかった。
誠二はそのまま、少女を置いて家を出た。
仕事へ向かったのだった。出掛けた時間は、結局いつもより三十分程度遅い時間だった。
会社に着くと、誠二は家に見ず知らずの少女がいることも忘れて仕事に没頭した。
不安はなかった。
いっそ全てを奪ってくれた方が都合が良いと思っていたから。
この日の仕事は、VA活動と銘打った金型加工メーカーの新規開拓と金型材料の安価化にほぼ注力させられた。
誠二の会社には、本来それらを専門に仕事をするような購買部署も存在したのだが、昨今の人員削減の荒波に呑まれた結果、最早その部署にまともなマンパワーは残されていなかった。
担当部署が回らないのであれば、なんでも屋と化している誠二がそれをすることは会社の面々から見れば至極当然のことだった。
誠二の上司曰く、ここいらで目を見張る活躍を見せないと評価が改善しないぞ、とのことだったが、それをし他業務が回らなくなった結果、誠二は余計に評価を落とすこととなるのだった。
この会社はどうやら、仕事をすればするほど評価が下落していくらしい。
誠二から見れば何も仕事をしていないような同期が、時たま興味もないが自分の評価の良さを誠二に自慢してくる。それを聞く度、誠二はそんな事実に直面してきた。
理解し、腑に落ちてもなお納得出来そうもないそんな事実に、誠二は何とも言い難い悪感情を抱えるようになったが、最近では最早そんなこともどうでも良いと思わされるのだった。
いつも通り、深夜二時過ぎに会社を出た。
昨晩、文具を盗もうと画策した馴染みのコンビニに立ち寄り、そんな非行未遂も忘れて弁当を買った。
社宅に辿り着き、誠二は驚いた。
自室の窓から、明かりが灯っているのが見えたのだ。
今朝、電気を消し忘れてきたのだろうか。
そう思いながら、扉を開けると鍵が開いていなかった。
部屋の中からは。
滅多に見ないテレビからのコメンテーターの声。
洗濯機の回る音。
そして、リビングに座る少女。
「……あ、おかえり」
一日経ち、すっかり誠二は昨晩の出来事を忘れていたのだった。
灯りの理由が腑に落ちて、少しだけ肩透かしを食らった気分だった。
「洗濯機、こんな時間に回したら迷惑だよ」
「鉄筋コンクリートで壁も厚いし、大丈夫かなって」
「……へえ」
一日経ち、少女が最早自分よりこの部屋の特性を理解していることに、誠二は少しだけ関心させられた。
とは言え、それ以上それ以下の感情は湧いてこなかった。
「夕飯、食べる?」
「え?」
誠二が見れば、ペットボトルが散乱していたIH周りが整理されていた。多分、少女の仕業なのだろう。
そして、IHコンロの上には、誠二が買いはしたものの使用した記憶のない鍋が置かれていた。仄かに香ばしい香りが、そこから漂っていた。
「作ったの?」
「うん」
少女は、能天気な一面を覗かせるかのように少しだけ誠二の問いから間を空けて頷いた。
「へえ、凄いね」
そう言う割に、誠二の言葉は感情が込められていなかった。
「食べる?」
「うん。そうする」
食べると聞かれたから、誠二はそれに同意した。ただそれだけだった。
「……手のそれは?」
「え?」
言われて、右手に握られたコンビニ袋を誠二は見た。今更、さっきコンビニに寄ったことを誠二は思い出した。
「あー、捨てれば良いよ」
「捨てるの?」
「うん」
抑揚なく頷いて、誠二はコンビニ袋をゴミ箱へ落とした。よく見れば、ゴミ箱も新しい袋に変えられていた。
少女は立ち上がって、誠二が捨てたコンビニ袋をゴミ箱から拾い上げた。
「勿体ないよ?」
「そうかな」
「うん」
「……そっか」
酷く疲れた頭が、正常に作動しなくなってきていることに誠二は気付いていた。
「座ってて。ご飯よそるね」
「うん」
返事をして、誠二はさっきまで少女が座っていた机の前に腰を下ろした。見覚えのないバラエティ番組が放送されていた。しかし、大きめのテロップは滑り落ちて、演者の声はただ耳障りだった。
「はい」
「……ありがとう」
お礼を言って、少女から箸を受け取った。
よそってくれたお茶碗のご飯。みそ汁。他惣菜。
どれから口を付けようかと思って、まるで腹が減っていない胃袋に気が付いた。
「……ごめん。今はいいや」
「そう?」
「うん」
誠二は、少女がよそってくれたご飯をコンロとシンクのスペースに戻した。
そして、寝る支度を始めようとしていた。
ふと、誠二は少女が寝る場所を用意しなければと思い至った。
「君、ベッドで寝なよ」
収納から、誠二は旅行好きの母親が置いていったもう一つの布団、毛布を取り出した。
六畳の狭い部屋。誠二は小さ目の机を端に寄せて、布団を敷き始めるのだった。
「いいの?」
「うん」
布団を敷き終えると、枕へ向けて顔をうずめた。
「寝るの?」
「うん」
「明日も早いの?」
「うん」
「……そう」
それきり、少女と誠二の会話はなくなった。
少女は誠二に気を遣ったのか、テレビを消して、部屋の電気も消してくれた。
しばらくして、ベッドが軋む音がした後、少女の寝息が誠二の耳に届いた。
明日も早いのに、誠二はどうしてかあまり眠くなかった。
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