髪を切って
美容室に入店して、粟飯原に促されるまま、誠二は黒光りする椅子に腰を下ろすのだった。それからすぐにケープを被せられ、椅子は髪を切るために上昇した。
「さて」
慣れた手つきで、粟飯原は背後から誠二の髪を弄っていた。
誠二はそれを、鏡越しにぼんやりと眺めていた。
「お客さん、どれくらいにしましょうか」
粟飯原に問われ、誠二は唸った。
いつもなら、とにかく短くしてくれ、と頼むのだが、店内の雰囲気に呑まれ、いつも通りの指示はし辛い気分だった。
「短くしてあげてくれますか」
そう言ったのは、少女だった。
「どれくらい?」
「結構バッサリ切っても似合うと思うんだよね」
誠二の背後で、二人がどこか楽しそうに話していた。しばらく話し込んで、二人は誠二の髪の長さをどうするのか、定めたようだった。
「お客さん、それで良い?」
「え、ああ、はい。良いですよ」
途中から二人の話を聞いていなかった誠二であったが、断る気も毛頭なかったので二つ返事でそれに応じた。
それからまもなく、粟飯原は誠二の髪を切り始めたのだった。
お店の中で流れるリラックス出来るような静かなBGMを聞きながら、誠二は鏡越しに切られていく自分の髪を見るわけでもなく、ぼんやりと窓の外の景色を眺めていた。自分の髪がどんな形で整えられるか、誠二は興味がなかった。
ただ、最近忙しかった誠二にして、今日は随分と時の流れが遅いような錯覚を覚えるのだった。いつもならもう仕事を始めて……始業してまもなく、上司に叱られ始める頃。そんな時間に髪の毛を切っている。しかも、上等なお店で。なんだか浮世離れしていて、不思議な気分だった。
「寝ちゃいましたね」
背後にいる粟飯原からそんな声が漏れた。どこか微笑ましいものを見てほっこり言っているような、そんな声だった。
誰が寝てしまったのか。
最初、そんな疑問が浮かんだ誠二だったが、すぐに見当がついた。
鏡越しに、誠二はお店の隅で待っていることになっている少女を見た。少女は座ったまま、手に持った雑誌を落としそうになりながら、転寝をしていた。
滞在四日目の朝以降、誠二は少女の寝顔を見たことはなかった。自分も相当辛抱強い人間だと思っていたが、付き合う必要もない自分に付き合い、かつ言ったことを守る少女の辛抱強さには、誠二は舌を巻く思いだった。
そんな少女の鏡越しながら見ている状況は、確かに。粟飯原のように、誠二もほっこりしそうになるのだった。
「今朝も早かったから」
綻ぶ口元で、誠二はそう漏らしていた。
「へえ、最近あの子、起きるの早いんですか?」
「えぇ、僕より先に絶対に起きて、僕より後に絶対に寝るんだって言って聞かないんです」
誠二は、まるで愛妻を想う夫のように静かに嬉しそうに呟いた。脳裏に過っていたのは、あの日のこと。ただ自分より遅く起きただけなのに、それを謝罪してきた夜のことだった。
「へえ、お兄さんのことそんなに好きなんですね」
「え、えぇ、そうなんです」
粟飯原に言われ、誠二は少女の口走った設定を思い出し、背中に冷たい汗を流すのだった。
「でもそれ、相当不健康な生活になっていません?」
粟飯原の言葉に、誠二は少女を見るのを止めて、鏡越しに粟飯原を見た。粟飯原は、さっきまで誠二の髪に執心だったのに、今は誠二の顔を見ていた。その視線は誠二の顔の目の下。そこにある隈を見ていることに、誠二は気が付いた。
目の下の隈。
毎日の平均睡眠時間が二、三時間の誠二の生活は、客観的に見ても不健康に間違いなかった。
「毎日ちゃんと寝れてるんですか? あなた」
粟飯原のぐうの音も出ない指摘に、誠二は苦笑するしかなかった。
「そんなに仕事、忙しいんですか?」
「えぇ、まあね」
「例えば?」
「え?」
「例えば、どんな感じなのかなって。興味本位です。嫌でなければ、話のタネに聞いてみたいなって」
「……ああ」
誠二は、こうして仕事の話を誰かに聞かれることは初めてだと言うことに気が付いた。
「面白い話でもないですよ?」
一時は……今でも、仕事のことで気を病むくらい、誠二は追い込まれていた。他者と不幸を共有することで、一人でないと思う事で、辛い気持ちが和らぐことがあることを誠二は知っていた。しかし、すぐに共感を求めてその話をしなかったのは、意外にもこういう場を想定しておらず、何から話して良いか見当がつかなかったからだった。
「良いですよ。仕事柄慣れてるんです。つまらない話」
はっきりつまらない、と言われ、誠二は笑ってしまった。予防線を張ったとはいえ、そうまではっきりと言ってくれるなら、逆に話しやすいというものだった。
まとまらない、つまらない。
そんな話を誠二は淡々と語り始めた。
寝る間も惜しんで働いていること。主観的には誰にも負けないくらい働き、成果を出していると思っているのに、まるで報われないこと。
上がらない給料。
壊れていく体。
すり減っていく精神。
社会人になって四年。
思えばこうして、自己を振り返る機会には恵まれてこなかったことを誠二は察した。仕事に忙殺されていたのだ。
ただ、いざ語ってみて思ったことは。
「……本当、つまらない話でしょう?」
思わず共感を求めるくらいのしょうもない自分の人生だった。
「そうですねぇ」
粟飯原は平然と、されど少しだけ困った風に曖昧な返事をした。
それからは無言の時間が二人に流れた。
居た堪れない気持ちの誠二と、同じような気持ちを抱きながら仕事をする手を止めない粟飯原。
市販の物よりも尖ったハサミが、誠二の髪を切っていく。
その髪を切る音が、静かなBGMに負けないくらい、誠二の耳には響いていた。
煌びやかに彩られた、安らがせるためのBGMに負けない散髪の音は。
まるで、雑音まみれの自分の人生のようだと誠二は思った。
明るい人生を侵食されていく、仄暗い暗黒に染まっていこうとする自分の人生のようだと、彼は思ったのだった。
「あの子が傍にいて、良かったですね」
粟飯原は言った。
誰が傍にいて良かったのか。
勘の悪い誠二でも、すぐにわかった。
粟飯原は言った。
未だ誠二が名も知らぬ少女。
同居をし、まもなく二週間が経とうとするのに、未だ名も知らぬ少女。
一時は、誠二が破滅のために匿った少女。
その少女がいて、良かった。
粟飯原は、そう言ったのだ。
パパ活……所謂援助交際というハニートラップ染みた行為をする怪しい少女が傍にいて、良かったと粟飯原は言ったのだ。
「本当ですね」
誠二は笑った。
返す言葉もなかったから。
自分でも腑に落ちたから。
少女を匿って良かった、と思う気持ちが芽生えてきていたから。
「あの子、意固地でしょう? 今回の件も本当に典型例」
粟飯原は、苦笑しながら続けた。
「いくら頑張っているあなたのためになりたいからって、あなたより早く起きて、遅く寝る必要なんてない。なのに、あの子はそうするべきだと思うと疑わない。本当、馬鹿な子」
「えぇ、僕もそう思う」
いくら夫婦になるからと言って、辛い思いを共有する必要なんてないと誠二は思っていた。
「でも、なんとなくわかりますよ」
「……え?」
誠二の戸惑う声と同じタイミングで、粟飯原は髪を切る手を止めた。
「あなた、ほっとくと何するかわからないように見えるもの。疲れが溜まっているからかな。自棄になっているように見えます。……もしかしたら、なるだけ見守っていないと心配なのかもしれない。いついなくなるかわからないから」
思わず、誠二は息を呑んだ。
粟飯原に、自分の持つ破滅願望を見抜かれて。
心臓を掴まれたような衝撃に襲われたのだ。
「まあ、あの子は何考えているかわからないから、本心はわからないですけどね」
誤魔化すように。
茶化すように。
粟飯原は、そう言って微笑んだ。
それからすぐ、粟飯原は髪を切る手を再び動かしだした。
髪を切る音も、静かなBGMも。
誠二の耳には届いていなかった。
何も聞こえないくらい、誠二はただ考えていた。
今、転寝をしている少女のことを、思っていた。
少女が何を考え。
少女が何を思って。
どうして、誠二に匿われることを選んだのか。
二週間も匿って、一度だって誠二が考えたことがないことだった。
誠二はようやく……。
ほんの少しだけ……。
少女のことが、気になったのだった。
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