これからもよろしく

 この時間が終わらないで欲しい。

 美空はそう、願っていた。


 でも、この世界がいつだって無情に、残酷に時を刻むことを、まだまだ若いながら美空はそれを認識させられていた。


 もうまもなく終わる誠二との二人暮らし。

 この部屋を出るまで、誠二をサポートするつもりはある。だけど、時たま襲ってくる虚無感。無駄な行いをしている自覚は、美空自身持っていた。


 それでも美空は、今日も献身的に誠二に食事を振舞い、率先して家事をし続けた。


 時が進んでいくことをわかっている。

 この二人暮らしが無駄な行いである。


 それをわかっている上で、美空はそれでもいつかの誠二のように……事なかれ主義者のように、惰性な時間を送っている。


 違うか。

 いつも通り家事をし、いつも通りに引っ越し準備を進める誠二を他所に。まもなく一緒に入れなくなる誠二を尻目に、美空は悟った。


 こうして献身的に誠二に振舞い続ける理由。

 最後の時が近いのに、誠二にそうする理由。


 それは、捨てて欲しくないからなのだ。

 そのことに、美空は気付くのだった。


 一月、誠二を傍で見てきた。初めて会った時のような破滅願望を、もう誠二が持っていないのは見ていればわかった。

 ただ、そんな破滅願望が誠二から無くなったから、美空は誠二の元から去りたかったわけではない。捨てられたくないと思ったわけではない。


 初めはただ、誠二を利用しようと思っただけだった。

 それからは、地雷な誠二の元を去りたいとも思ったが、それを誠二にとっくの昔から予見されていたのが気に入らないから傍にいるだけだった。


 ただ、そうして家事をしてあげて、一緒に暮らして……美空は、誠二に特別を与えようと思うようになったのだ。


 特別。

 日頃辛い誠二が、少しでもいつもより救われるように。


 そう願って、特別を美空は与えたいと思ったのだ。


 それが空回りすることもあった。

 誠二のため、誠二の元を去るべきだと思うこともあった。何ならそれは、今も思っている。


 しかし、内心では本当は、去りたくなんてないのだ。



 ……何故なら、それは。



 誠二が、美空に特別を与えられたと思っているように、美空もまた、誠二から特別を与えられたからだった。


 誠二の元に残りたい。

 誠二の元から去りたくない。




 ……でも、誠二の元に残り続けることはどうやら叶いそうもない。




 狭い一ルームの部屋を借りたこと。

 布団も一つしか新調しなかったこと。


 それはまさしく、誠二が心機一転したいとそう思っていることを告げていた。


 ブラック企業から去れて、精神的苦痛から解放されて、ようやく自由な身となって。


 誠二は恐らく、これまでの社会人生活のことを忘れたいと思っているのだろう。


 そして、ブラック企業の社会人時代の記憶の中には、パパ活活動し匿ったいわく付きの少女のことも、当然残っているのだ。

 これからようやく、真っ当な人生を歩む誠二にとって、いわく付きの美空はデメリットでしかない。


 むしろ美空がそう思っているからこそ、誠二が自分を捨てることが、美空は容易に想像出来たのだった。



 即日入居出来るアパート。

 そこにすぐ入居せず、引っ越しの準備を終わらせて、誠二はようやく明日、新居へ引っ越そうとしていた。


「寝ようか」


「……うん」


 前より物静かになった部屋で、二人は最後の一夜を明かそうとしていた。

 静かな夜だった。

 思わず、美空は泣きたくなるくらい、静かな夜だった。


 最後の夜。

 誠二と過ごす、最後の夜。


 これ以上、誠二に迷惑をかけてはいけない気持ち。

 誠二が美空との関係を清算したいと思っている気持ち。


 美空は全て、わかっていた。


 だから美空は、自分から誠二に彼の元に残りたい、とは口が裂けても言えなかった。

 だから美空は、この夜が最後だと思っていた。




「思えば、濃密な四年間だった」




 静かな夜の静寂を切り裂いたのは、誠二だった。

 これまでの社会人生活を懐かしむような、あのブラック企業と縁を切れたことを感慨深さそうにしているような、そんな声だった。


「大変だったね」


 労わるように、美空は言った。誠二の四年の苦労を思うと、私情を挟む気にはならなかった。


「大変だった。本当に」


「何が一番辛かった?」


「……そうだね」


 一番苦しかった時期を思い出すように、誠二は一息ついた。


「二年目の夏。メーカー。役員。上司。色んな人に圧かけられて、結局パンクしたからなあ」


 言ってから、誠二は当時を思い出し苦笑した。最早誠二にとって、あのブラック企業での思い出は全て過去だった。だから笑うことが出来たのだ。


「幸い、趣味が少ない人間だったから……時間的拘束は、まあ辛かったけど。一番辛いことではなかったんだ。一番辛かったのは、出来ないことをやれって言われることだった」


 物理的に考えて、一人でこなすには無理な仕事の量を当時の誠二は押し付けられたのだ。本来であれば、出来ないとなればなら人を増やすかなどして対策をするものだが……生憎かのブラック企業は、上司が直々になんとかしろ、それがお前の仕事だろ、とそう言う会社だった。だから、結果誠二はパンクしたのだった。


「思えばあの時から、一度も事態は好転することはなかった。その場しのぎばっかりだったなあ」


 だからこそ。


「本当、辛かった」


 しみじみと誠二は呟いた。


 美空は、誠二に対して申し訳なさを感じていた。嫌な記憶を思い出させてしまったことに。




 ……しかし。




「……でも」




 誠二は、それ以上に言いたいことがあった。






「君のおかげで、最後の一月は本当に……本当に、助かった」




 美空は暗闇の中、目を見開いてしまった。




「不潔だったこの部屋を、毎日君が清潔に保ってくれて助かった」




 そんなこと、誠二に言って欲しくなかった。




「毎晩どれだけ遅い時間に帰ってきても、君が起きていてくれて嬉しかった」




 誠二にとって、自分はデメリットしかない存在。




「君が振舞ってくれた手料理、ずっと食べきれてなくてごめん」




 そう、言い聞かせたかったのに。




「休業日、君と一緒に遊びに行けて本当に楽しかった」




 そう思って、諦めたかったのに……!




「今の会社を辞めるべきだと言ってくれて、本当にありがとう」




 ……これでは。

 これでは、判断が鈍ってしまうではないか。


 正しい選択をしようとしているのに、それは正しくないと逃げ道を探したくなってしまうではないか。




 ……ただ、不思議と美空の気持ちは満たされていっていた。

 



 誠二をサポートしたい。

 特別を与えてくれた誠二の支えに、少しでもなりたい。


 最初はそんなこと思っていなかったのに、いつの間にか美空はそうしたいと思うようになった。


 そして……どうやらそれになれていたらしいことを、誠二の口から確認できたから。


 だから、美空の気持ちは満たされていた。



 やるせなさと満たされる気持ち。

 憤りと歓喜。


 交わることのない気持ちが、美空の胸中でまるでほつれた糸のように絡まりあっていた。


 しかし、糸は次第にほどけていく。


 きっかけは……誠二に迷惑をかけたくない。いつか抱いた、そんな気持ちだった。




「こちらこそ、この一月は……本当に、ありがとう」




 もっと言いたいことはあった。でも言えなかった。言わなかった。


 多分、誠二なら……それで伝わると、美空は思ったのだ。




 気持ちの整理が少しついたところで、美空は目を瞑っていた。そして気付いたら、朝がやってきていた。


 お別れの朝が、やってきていた。


「おはよう」


 いつも通り、誠二は早起きだった。

 今日は引っ越し業者がやって来て、それから昼食を食べて新居に移っていくらしい。


 誠二の同僚が仕事に向かって少しした頃、引っ越し業者はやって来た。社宅にも関わらず、同居人がいるが、業者の人はそこまで事情を知らないのか、美空に気を置く素振りはなかった。

 引っ越し業者二人。誠二と美空。計四人で荷物を部屋から運び出した。


 そして、引っ越し業者は荷物を持っていった。


 新居で落ち合って、業者は段ボールを室内に平積みにして、そこを後にした。


 昼ご飯は、二人で一緒に食べた。

 気持ちに整理が付いたと思ったのに、美空はあまり料理を美味しく頂くことが出来なかった。まだ未練があるんだな、と美空はまもなく気が付いた。


 段ボールの開封作業。

 家具の設置。


 作業は円滑でなくとも、順調に進んでいった。


 元々もの寂しいくらい部屋の中に物が少なかった誠二の部屋の整理は、すぐに片付いた。日が暮れる前に作業は全て終わった。


 作業が終わった、と言うことは……それはつまり、美空と誠二の別れがやって来たことを意味していた。


「ふー」


 誠二は、ようやく終わった作業にひと段落付いていた。


「終わったね」


 名残惜しそうに、美空は誠二の隣に座った。


 ベランダへと繋がる窓から、赤い西日が差しこんできていた。その西日は、二人を優しく包み込んでいた。


 しばらく二人は、何を言うわけでもなくその陽を見続けていた。


 ……美空は思っていた。

 今までありがとう。

 サヨウナラ。


 そう、言わないと、と。


 ようやく誠二は真っ当な人生を歩める。

 ようやく誠二は、辛い思いをする必要がなくなる。


 その誠二の人生に、自分は邪魔でしかないのだから。


 だから、この場を去らないといけない。




 しかし、言葉は喉につっかえて出てこなかった。




「ねえ」




 静寂を破ったのは、誠二だった。




「ん?」


 どうやら誠二から言ってくれるらしい。

 最後通告を、言ってくれるらしい。


 美空の声は、震えていた。か細く、震えていた。




「これ」




 誠二は、美空に向けて手を差し出した。


 美空は、目を丸めていた。誠二は自分に一月の感謝を抱いている。その事に対する謝礼かもしれない。そう思った。


 ……これを受け取れば、つまりはもう誠二とはただの他人となる。


 美空は逡巡した。

 でも、まもなく誠二の手の下に、両手を置いていた。これ以上誠二に迷惑をかけるわけにはいかないと、やはり最後にもそう思った。




 美空の手に、金属製の固い何かが触れた。




 長細い形状のそれを受け取って……美空は、それを見ることが出来なかった。怖かったから。


 でも、これ以上停滞するわけにもいかない。


 美空は、目を開けた。




「え」




 そして、そんな間抜けな声を出した。


 美空の手にあった物。

 献身的な美空の態度に、誠二が謝礼として差し出した物。






 それは、鍵だった。






「そう言えば、この部屋の鍵渡してなかったなと思って」


 誠二は、呑気にそう微笑んでいた。


「……どうして?」


「あれ、要らなかった?」


「違うっ」


 手を伸ばしてきた誠二に鍵を取り上げられる。そう思った美空は反射的に、鍵を胸の前に隠すように大事そうに両手で抱えていた。


 そして誠二は気付いた。美空が目尻に涙を蓄えていたことを。


「な、なんで泣いてる……?」


 戸惑った誠二は、片言に尋ねていた。


「べ、別に泣いてない……」


 そう言って、美空は目尻を鍵を持っていない手で拭っていた。


「いや、それは無理がある」


「ない」


「ある」


「ないっ」


「あ、はい」


 誠二は折れた。

 ただ別に、泣いていないと言う美空の詭弁を納得したわけではなかった。その証拠に、誠二は困ったように頭を掻いていた。


「えぇと、なんかごめん」


「だから、泣いてない」


 そう言いながら、少女は未だ両目から溢れる涙を手で拭っていた。


「タオル持ってこようか?」


 あまりに涙が止まらない少女の様子を見て、誠二は腰を上げてそう提案した。


 黙った少女だったが、まもなくコクリと頷いた。


 どうせだからと、誠二は買ったばかりのタオルの箱を開けてそこからタオルを一つ美空に手渡した。


「……新品だから水分弾く」


「あ、そう?」


 不満そうな美空に、誠二は苦笑した。


 ……ここまで頑としていると、美空から涙の理由は聞きだせないのだろうと誠二は思っていた。


 ただ、少しでもいつもの調子を思い出してくれるのなら、それでも別に構わなかった。


「今日は疲れたろ。夕飯はたまにはピザでも取るか」


「……うん」


 スマホ、どこ置いたか。

 誠二は周囲を散策するため、立ち上がろうとした。


 その時、服の裾が引っ張られた。

 振り返ると、美空がそれを掴んでいた。




「……ここにいて、良いの?」




 そして美空は、寂しそうに尋ねてきた。




「当たり前だろ」


 何当然なことを。誠二は首を傾げた。


「どうして?」


「え?」


「どうして……良いの?」


 誠二は思った。

 今の美空は理性的には誠二にここから立ち去れと言われたがっているようだと。




 そして感情的には、ここに残りたいと思っているようだと、そう思った。




 その様子が、誠二はいつか、美空が熱を出した日の姿と重なった。




 美空という少女のこと。


 誠二は果たして、この一月でどれくらい知れただろうか。


 おっとりとしていること。

 意外とアバウトなこと。

 献身的なこと。

 家事ならなんでも出来ること。

 年の割に、しっかりとした感性を持っていること。


 ……パパ活をするような子、ということ。




 そして、自分を救ってくれたこと。




 昔に比べて、誠二は彼女のことを知っていた。勿論、全ては知らない。ただそれはこれから築いていけば良い。


 でも、昔に比べて……二人は互いのことを知り始めているのだ。




 ……そして。




「だって君は、俺の妻、なんだろう?」




 それは、昔よりずっと知っている彼女と誠二が交わした契り。


 破滅願望を持った両者が、今では少し違う目線から想うようになった、相手との関係。




「……良いの?」


「何が」


「あたし、面倒臭いよ?」


 誠二は苦笑した。

 美空が面倒臭いなら、死にかけていた自分をサポートする日々は、もっと面倒臭かっただろう、とそう言いたかった。

 でも、そうは言わなかった。




 それは誠二が、おっとりとしたこの子に、少し意地悪をしたいとそう思ったから。




「妻を支えるのが、夫の勤め。だろ?」





『夫を支えるのが、妻の勤め』


 美空は、誠二の台詞がいつかの自分の台詞と重なった。


 得意げに笑っている誠二を見て……美空は少しして、泣き止んだ。泣くのが馬鹿らしくなったのだ。

 くだらないことで悩んで、落ち込んで……一人で抱えて。


「確かに。それが夫婦だ」


 それがまるで、夫婦の関係ではないことに、美空は気付いたのだ。


 美空は、初めての感覚を味わっていた。

 特別を与えてもらった誠二に救われ……胸の中に幸福感にも似た気持ちが宿っていることに、気が付いたのだ。




 ただ彼女らは、未だ夫婦らしいことを何もしていない。




 でもそれは、きっとこれからいくらでもしていける。築いていける。




 二人が、いつまでも一緒に入れるのならば。




 ……だから、二人は手を取り合った。


 これからも一緒に入れるように。

 互いに特別を与えられるように。


 手を取り合い、微笑みあい。


 そうして、こう言い合った。




「今までありがとう」






「これからもよろしく」

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