第五章 眠れる森
第一話
担任が言った通り、二学期は慌ただしく過ぎていった。九月下旬に業者模試を受けた後、十一月上旬に向けての文化祭の準備が少しづつ始まった。
柚月のクラスは「アートカフェ」というものになった。それは「アートな作品を店内に飾るカフェ」ではなく、「アートな飲み物を提供するカフェ」だ。ドリップしたコーヒーだけではなく、ラテアートや三層になったバリエーションコーヒーなどを提供する。飲食系の模擬店を開ける権利は数が限られている。生徒会に掛け合って数少ない権利をもぎ取ってきた松崎はしばらく自慢げにしていた。
「はい、確かに受け取りました」
授業のない土曜日の午後。柚月は「ガンダーラ」の老爺を訪れていた。
文化祭で使用するコーヒー豆を手に入れるためだ。
「ガンダーラ」では豆の販売もしていたのだ。コーヒー豆を調達するにあたり、いい豆を売っている店があると松崎に言ってしまった。薬局やスーパーで買えるのに。そのため松崎から「お前がその店でコーヒー豆を調達してこい!」と命じられてしまった。企画の中心にいるのが松崎のため、逆らうのも面倒だった。電話で話をすると、老爺は嬉しそうに了承してくれた。
「値引きもしていただいて、感謝します。……注文より多くないですか?」
「サービスです。豆は当日まで、冷暗所で保存してくださいね。そうすれば風味は持ちますから」
気前が良すぎる。これでは商売にはならないのではないか。
休みの日に、山の麓まで来て豆だけ買って帰るのではもったいない。値引きをしてもらった上に何も飲まないのでは、老爺に悪い。柚月はブレンドを一つと注文する。
「それで、その後はいかがですか?」
老爺には別の目的があった。柚月の旅の進捗を聞きたいのだ。豆が安いのはその対価か。柚月は苦笑いをして、口を開いた。
「この間、浦賀峰厚生総合病院に行ってきましたよ」
「ああ、あの廃業したところですね」
廃業は有名な話なのか。近場のニュースに疎い自分を静かに恥じた。
「一番は赤字なんですが、なんでも、若い男の子のがんの進行を見逃していて、それを誤魔化したらしいんですね。医者は医者同士、結構庇いますから。師弟関係があったらなおさらです」
店には柚月以外誰もいない。コーヒーミルを回す音。淹れる前から響くような香りが立ち上る。今日の気分はショパンらしい。ホロヴィッツですよと教えてくれた。
「男の子はどうなったんですか?」
老爺はミルを動かしながら小さく首を振った。亡くなった、という意味だ。
「新聞記事では名前までは出ていなかったんですが、二十歳そこそこの子で、肺がんだったらしいです。たちの悪い風邪だと判断したようですが、気がついた時には手遅れだったようですよ。それが廃業の追い討ちですね」
肺がんをどうやったら風邪と誤診できるのか。医学の知識がない分、柚月には余計不審に感じられた。赤字経営が続いた病院だから、腕に信用が欠ける医者が集まったのだろうか。いや、いまいちな医者が集まったから赤字経営がズルズルと続いたのか。どっちもありそうだが、決定打が人一人を亡くした誤診だった。
柚月はファイルの中から、写真を一枚撮り出した。浦賀峰厚生総合病院で撮ったグランドピアノである。
「いいですね。終わりの世界の中のピアノって感じがします」
「ありがとうございます」
割れた窓から夜の光が降り注ぐ。黒々としたピアノの本体に光の微粒子が映し出された。ーー岩永にも絶賛された一枚だった。お前はこれを文化祭のメインにしろ、と言われた。写真のコンクールに出していいか? とも聞かれたが、丁重に断った。
老爺がポットから細くお湯を注ぐ。フィルターの中の豆がハンバーグのようなビジュアルになった。
「……誰にも開かれないでそのままになっているピアノって、どんな気持ちなんでしょう」
自分で撮った写真を眺めながら、柚月はぽつりとつぶやいた。
院内のピアノコンサートを思い浮かべる。懸命に闘病する患者やその家族の憩いの音を鳴らしていたピアノは、閉院後に引き取り手もなくそのままにされてしまった。赤字経営で潰れたことよりも、たった一人で残されたピアノの存在が悲しく感じる。
「……さあ、無機物の気持ちはわたしにはわかりません。ずっと弾き手を待っているのかもしれませんし、早く壊してくれと言っているのかもしれません」
「弾かれないピアノは哀れだから、ですかね」
言って、柚月は自分の言葉を後悔した。自宅のピアノだって、2年前からろくに開かれずに物置になっているではないか。
それでは家のピアノは哀れなのだろうか。
柚月は心の中で、矛盾を承知で否定をした。勝手に弾かなくなったのに哀れだとは思いたくない。
老爺はポットのお湯を均一に注いでいく。フィルターを通して、黒々とした液体が落ちてくる。ピアノの黒に似ている色。
老爺は静かに笑った。
「もし、百分の一の確率で弾き手が現れたなら。それはそのピアノにとって非常に幸福なことだと思いますよ。そうなることを願いましょうかね」
「百分の一では難しくないですか?」
「それでは百億分の一にしましょう。……あそこの廃校ですが、どうやら近いうちに取り壊しになるみたいですよ。長いことそんな話も出ていなかったのに」
柚月と雨宮が訪れた日の豪雨。一番派手な雷が、あの廃校近くに落ちたらしい。雨宮が怯えた一発目の雷だろうか。
「何になるんでしょうかね」
「郷土資料館になるみたいです。あまりにも古くなりすぎたから、そのまま使えずに新しく建て直すらしいですよ。廃校になった時にさっさとそうなっていれば、あんな事件なんて起こらなかったでしょうにね」
全くだと柚月は思った。しかし事件がなければ、雨宮と山の麓までくることもなかったし、この老爺に会うこともなかったのだ。何が因果になるかわからない。
「……あのこは元気ですか?」
ブレンドです、熱いので気をつけてくださいと老爺は添えた。
「あのこ?」
「一緒にいた子ですよ。あれからどうですか? 雷にあれだけ怯えるなんて、心配で心配で」
きっと大事にされていたんでしょうね、と老爺は目を細めた。
元気、とは言い難い。いつもと変わらないだけだ。二学期になり、クラスメイトや教師が忙しなく動き回っている中、静かなのは雨宮の半径1メートルだけだろう。彼女のクラスは何をやるのだろう。そこまでは考えていなかった。しかし、大人しく文化祭に参加する彼女の姿が、どうしても想像できなかった。
「まぁ……普段通りですね」
コーヒーを飲みながら柚月は答えた。
普段通り。病院に行った後も、夜の散歩は続いている。淡々と、話こともなく。もはや目的のある旅ではなく、日課に成り下がっている。
「意外にも、あなたがあの子の手綱を握っているのかもしれませんよ?」
「俺がですか? そんなことありませんよ」
「いいえ。平気そうに見えても、脆いものです。離さないであげてくださいね」
頭の中はいつだって夜の神でいっぱいなのだ。あの少女は。雨宮が何を求めているかを老爺には教えていない。だからそんなことが言える。
考えすぎだと思いたい。雨宮はいつもと変わらない。
より一層静かになったのも、たまに柚月を見つめる瞳が熱っぽく潤んでいるのも、彼女が誰かと間違えているような気がするのも。全て柚月の気の所為なのだ。
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