第五話
柚月は雨宮の母親と、アパートから少し離れた喫茶店に入った。山下南公園近くの喫茶店である。テーブルを挟んで同級生の母親と向き合うのは、奇妙な心地がした。母親には柚月に聞きたいことがあり、柚月は母親に確認したい事項があった。テーブルに水が置かれ、母親はカフェオレ、柚月はモカと注文した。
「あなたの言うとおり、私は雨宮小夜子の母よ。それで、娘とはどんな関係なの?」
店員が去ったところで、母親が切り出した。鋭い瞳で柚月を睨んでいる。柚月との仲を疑っている顔だ。遠野柚月です、同じ高校に通っていますと、まず伝える。
「安心してください。想像するような懇ろな関係ではありません。訳あって互いの目的のために協力関係にある友人です。今日は学校の課題を届けにきただけです」
さっき不可抗力でそうなりかけたが、と心の中で付け足した。
雨宮の母は、疑問を深く顔に刻む。
「……一体あの子は何をしているの? あなたに迷惑はかけていない? 世間知らずだから、何をするのか、学校でどんな風なのか心配で」
娘のことを信頼しているのか疑っているのかわからない口調だった。いやこれは娘のことを何も知らないと言った方が正しいか? きっと、クラスで浮いているらしいとか、美形の先輩に迫ったらしいという噂も知らないだろう。
柚月にはこの二人の関係性がわからない。信頼関係がないのか。それとも……。
「雨宮……いや、小夜子さんとは会っていないのですか?」
柚月は初めて、雨宮のことを下の名前で呼んだ。
会いたくないって言われているの。母親は自嘲気味に笑った。
「情けない母親でしょ。でもあの人も心配しているのよ。本当はあの子を連れて帰りたいぐらいなんだけど、こっちにいるって言って聞かないの。ほっといたのは私たちだからそう言われても仕方がないんだけど、それでもあの子が一人でいるなんて絶対にだめ。何が起こるか、変なことを考えていそうで心配なのよ……」
気が急いているのか、母親の話の筋がぼやけている。文脈から、一緒に住んでいないらしいことと、雨宮が母親を避けているらしいことと、母親が娘のことが何もわからないということしか読み取れない。何があって、どうして彼女が「夜の神」を求めているのか。何も知らないのだろう。
「……すみません、順を追って説明していただけますか」
あの雨宮の母親だから、夢を見るように美しく、詩を歌うような声で浮世を語るのかと思った。
実際には違った。忙しない現実の中で生きている。娘のことで戸惑い、娘のことを心配する、平凡な母親だ。柚月の母とあまり変わらない。
「遠野くん、だっけ。今日はこれから用事ある?」
「……特には」
「ついてきてほしい場所があるの。車で乗せて行くから。そこでならうまく説明できるかもしれない」
その時に注文したカフェオレとブレンドが届いた。母親は熱いはずのカフェオレをぐいっと一気に飲み干した。同じように飲まねばならないのだろうか。モカを半分残して、店を出る。
自転車は喫茶店の人に頼んで、しばらく駐車させてもらう。柚月は雨宮の母親のアクアに乗り込んだ。車内は、余計な雑貨がなく清潔だった。シートベルトをつけると、新車独特の匂いがした。この車に、雨宮は乗っていないかもしれない。
エンジンがついて車が発車される。
「……いつもこんな感じで見守っているんですか?」
浦賀峰厚生総合病院でも、夜の散歩でも、何度かこのアクアは後ろをついてきた。一人で暮らす娘を案じての行為だとは理解できる。赤信号になって、雨宮の母は頷いた。仕事があるから、いつもではなくてたまになんだけど、と言って。
「あなた、あの子と山の麓に電車で行ったでしょう? 一泊して帰って来て、一体何をやっているんだろうって思ったの。そうしたら、いつもあなたと一緒だった。そのあたりから。見守り出したのは。一人じゃなくてよかったけど。……あなたたち、一体何をやっているの?」
「写真を撮らせてもらってます。趣味で。俺の撮りたい写真に、彼女に協力してもらっているんです」
雨宮が「夜の神」を探している、とは言わなかった。あくまで自分が「どうして彼女と一緒にいるのか」という理由だけを伝える。娘のことを何も知らないのだったら「夜の神」を恋慕っていることも知らないだろう。
「……あの子が撮っていいと言ったの?」
雨宮の母が、上擦った声を上げた。よっぽど驚いているのか、運転に集中しつつも、その瞳を丸くさせている。
「まぁ、そうですね……」
「……驚いたわ。あの子に友達ができるなんて。ずっと兄にしか心を開いていなかったから」
今度は柚月が目を見開く番だった。
「ちょっと待ってください。雨宮には、兄がいたのですか?」
初耳である。彼女は夜の神については饒舌に話した。母のことは少しだけ話した。だけど、兄がいるとは聞いたことがなかった。
「聞いてないの?」
「全く。もともと、そういうことは詮索しない間柄なので」
「……そっか。じゃあ、それも話さないといけないわね」
雨宮の母は、淀みなくハンドルを切っている。柚月の家を通り、鹿の交差点を通り過ぎる。アクアは柚月の中学の学区外を出た。青岩橋を通り過ぎて、岩魚川沿いを走る。
アクアが停車したのは、川沿いの一軒家だった。豪邸、という表現が正しい。表札に書かれた名前を見て、柚月は思わず息を呑んだ。
「ここが私たちの家だった場所よ。さあ、入って」
雨宮の母に招かれる。売却予定との札が立っているが、気にせずに雨宮の母は扉を開ける。清掃されたフローリングの床は埃ひとつなく、居間は驚くほど広く。
……そこには、孤独なグランドピアノが置かれていた。
*
「柚月。おい、柚月」
授業の合間の昼休み。柚月は松崎と適当に昼食を食べていた。雨宮の母と出会ってから数日経っている。文化祭は二週間後に迫っており、昼休みも浮かれた空気が漂い始めている。
松崎の声に、柚月は弁当箱から顔を上げた。
「なんだ?」
「なんだじゃねえよ。お前、最近おかしくねぇ? 上の空が多いっつーか」
「普通だ。……多分」
「多分をつける時点で普通じゃねえよ!」
確かに、普通ではないと自覚はしている。雨宮の母の話を聞いてから、母親の話が頭を巡っている。母の話と雨宮を重ねれば、夜の神が誰で、雨宮がそれを求める理由が合致する。
しかし。
柚月は弁当に箸をつけた。出汁巻らしいが、味がよくわからない。考えすぎているからだろうか。弁当は母が毎朝作っている。食べ終わった弁当箱は、家に帰ってから柚月が洗っている。作ってくる人間への、最低限の感謝だ。洗われたのを確認して、母は朝、弁当箱に料理を詰める。単純な出来事だ。……雨宮とその母の親子関係を思うと、多少厄介だなと感じることはあっても、自分と母はなんと単純で面倒がないものか。
「……なぁ、松崎」
母と自分の関係のように。この明快かつ単純な友人に聞くのは多少、憚られるのだが。この友人は、柚月が思うよりも、自分の話を聞いてくれているのだと知っている。松崎はなんだよ、という目を柚月に向けてきた。
「……目の前に、切実に答えを求めている人がいて。俺はその人の答えを知っているんだ。でも、その人にそれを教えたら、立ち直れなくなるかも知れない。その人が欲しい答えじゃないから。傷つけたとしても責任は取れない。……それでも俺は、その人にそれを教えるべきだろうか」
名前を出さずにぼかしたのは、雨宮についての事柄だったからだ。松崎にも誰にも、雨宮と自分の関係を話していない。そしてこれから行うことに、自分の中では決まっているのにその踏ん切りがつかない。
山の麓で、柚月は雨宮に「望み続ければきっと会える」と慰めてしまった。あの時は、弱り切った雨宮のための一番の言葉だと思ったのだ。
今では違う。
松崎はコンビニの唐揚げを口の中に放り込んだ。口の中をもごもご動かしながら、俺だったらの話だけど、と、前置きをして。
「俺だったら、自分がしたいようにするね。知らない方がいいと思ったら教えない。知った方がいいと思ったら、教える。俺がその人にしたいこと一番に考えるな」
「……したいように」
あたぼうよ、と言って松崎は唐揚げを飲み込んだ。
「お前が何を悩んでんのかわかんねえけど、結局何が人のためになるかはわかんねえよ。だったら、自分がしたいことをする。自分のしたことで傷つけたとしたら、責任を取るとかじゃなくて、傷口を塞いでやれれば一番いいんじゃねえの? 大体、傷つけるのを恐れていたら、何にもできねえよ」
親友は、お前はたまに考えすぎるからなと邪気のない笑顔を柚月に見せた。
「アートカフェ」を提案した時の松崎を思い出す。自分がこうしたいと思ったことを、真っ直ぐに実行している。松崎はいつも明快だ。
その明快さが、柚月に背中を押した。
腹を括って、食べ終わった弁当箱をランチクロスに包む。
「お前、やっぱりいいやつだな。惚れっぽくて変わり身早えけど」
「だろ? って、こんないいやつの俺が、なんで彼女ができねえんだよ!」
「いいやつすぎるからだよ。……俺、ちょっと図書室行ってくるわ」
またか? お前、図書室に何しに行くんだよ、読書か? それとも逢引きか? ……松崎の茶化すような言葉に、柚月は多分後者、と言っておいた。ルーズリーフとボールペンだけ持って図書室に向かう。
図書室に入った柚月はルーズリーフの端を破って、指定の場所と時間を書いた。グラウトの『西洋音楽史』の下巻を開いてみるが、相変わらず読まれた風はなかった。これからも読まれることはないのかも知れない。
誰かが読んでほしい、とも思う。
雨宮と柚月を繋いだのは、この『西洋音楽史』だった。このメモを挟むのも、今日が最後かも知れない。
そう思うと、少しだけ感傷的になった。
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