第四話

 その後、雨宮は学校に来なくなった。学校に来ないと言うことは、『西洋音楽史』にメモが挟まれなくなったことを意味する。柚月が雨宮と夜に会うことが無くなった。一人で歩く散歩は、少しばかり味気なく感じられた。


 代わりに何日か経って、1組の河口から、授業や課題のプリントを雨宮に渡すように何故だか頼まれた。釈然としないが、断って敵を作るのはもっと面倒だった。休んでいる理由を聞いても、河口は答えてはくれなかった。


 放課後、職員室で1組の担任に、雨宮の自宅の住所を聞き出した。同じ市内で、そう遠くない場所に住んでいるとわかっていても、住んでいる場所までは互いに知らない。1組の担任は、化学の佐川だ。小太りの化学教師が言うには、音楽の授業中に倒れたあと、姿を見ていないのだという。iPhoneのカレンダーを見る。今は十月の半ばで、倒れたのは十月上旬だ。一週間以上登学していないことになる。


「なんで遠野が行くんだ」

「それは先生のクラスの生徒に文句を言いたいところです」

「……まぁ、行ってくれるなら誰でもいい。ここだから。全く、体調不良っつっても限度があるわな」


 頭をぼりぼりとかいて、乱雑に住所をかいたメモを渡した。

 この担任も、面倒なことを避けたい質らしい。教師の怠慢を隠そうともしない。柚月も人のことを言えたものではないが。



 一旦自宅に戻り、住所を頭に入れて自転車に乗り換える。同じ市内だが、中学の学区は違う。中学の頃、彼女はどんな様子だったのだろうか。何事にも無関心なのか、学友はいるのか。何故だかそんなことを考えてしまう。

 山下南公園を過ぎて、街中の岩魚川と合流をする依田川に沿うようにペダルを動かした。田んぼの中に、ぽつぽつと民家があるだけの寂しい風景が広がる。ランドセルを背負った子供が、元気よく家路について行く。


 辿り着いた雨宮の住処は、柚月の想像とは掛け離れていた。

 本当にここなのかと、佐川から渡されたメモと現物を見比べる。間違っていない。

 あばら屋一歩手前、という表現が正しい。


 ――目の前にあるのは、深窓の令嬢という雰囲気の雨宮小夜子には似つかわしくない、築四十年以上経っていそうな木造のアパートだった。




 二階の2–Bと表札があるところが、雨宮の部屋らしい。入居者募集、との看板がアパートにかかっているが、彼女以外に住人がいるかどうかも怪しい。アパートの傍には、紺色のアクアが停車されていた。前に、夜に雨宮と歩いた時に横を通った車に似ていた。

 剥き出しの階段をのぼると、カンカンカン、と安っぽい金属の音が立った。2–Bの部屋の前にきても、表札に名前は書かれていなかった。

 内側の聞こえるように、3回ノックしてみる。反応はない。


「雨宮」


 今度は声を出してノックする。


「課題のプリントを持ってきた。いるなら開けてくれないか」


 それでも返事がなかった。沈黙のみが返ってくる。部屋を間違えただろうか。メモに書いてあるのは「銀の蔵荘2–B」。アパートも、銀の蔵荘とプレートが貼ってあった。目の前の表札は2–Bと扉に番号がついている。


 だめ元でドアノブを回してみる。鍵は施錠されていなかった。

 彼女の不用心さに呆れながら、玄関を開けた。


 二部屋続きの間取りで、入ってすぐにガスコンロと流しがあった。裸の電球がぶら下がっている。奥の部屋は畳の部屋で、薄そうな布団が敷かれていた。玄関から、部屋の全てがわかってしまう間取り。

 雨宮は窓の外をじっと見つめていた。柚月のところからは、後ろ姿しか見えない。体調が悪くて寝ていたのか、ワンピースタイプの白い寝巻きを着ている。


「雨宮」


 いたのか。いたのなら、出てくれてもよかったのにと思いながら、再び彼女を呼んだ。

 雨宮がゆっくりと振り向いた。熱があるらしい、赤い顔だった。体調が悪いのは本当のようだ。そして。


「あなた。あなた。わたしの月読」


 蕩けた笑顔を見せた。おぼつかない足取りで柚月に近寄り、思い切り抱きついてきた。


「へっ」


 首に彼女の両腕が絡まり、二つの胸が柚月の体で柔らかく潰れた頃、柚月の口から間抜けな声が飛び出た。


「やっと会えた。わたしの月読。ねえ、どうしていなくなってしまったの?」

「いや、雨宮、俺は……違う」


 柚月の癖のない黒髪が、雨宮の指に絡みつく。頭を掻き抱かれ、彼女の熱い吐息が柚月の首筋にまとわりついた。


「嘘ばっかり、あなたはわたしの月読。音は嘘つかないわ。この間、病院にいたのもあなたでしょう」

「人の話を聞け……!」


 抱きつく彼女を、どうにかして引き剥がそうとする。そうすると、雨宮の細い体が力なくぐらっと傾いた。しかし雨宮は柚月の頭を離さなかった。二人で縺れ合うように床に倒れ込む。

 柚月の体が、雨宮の体を押しつぶした。寝巻きの下はショーツ以外何もつけていなかった。ぴったりと密着してしまう。少女の体の、しめった柔い熱が伝わってくる。

 この体勢は不味い。すぐに彼女から離れようとして――離れない。正しくは、離されない。雨宮の二本の脚が、柚月の腰に纏わり付いている。身動きが取れない。


「待て! なんのつもりだ!」


 予想外の出来事に、柚月は声を荒げた。プールでぬらっと濡れた白い足は妙に色気があった。生きているもの、ではなく、死に近い発酵直前のもののような。リアルに触れてくる雨宮の脚は、太ももやふくらはぎにむっちりとした弾力があった。先日の剥製のような彼女とは程遠い、生きた人間の体温。


「だめ。どこにも行かないで。早くわたしを奪って」

「なっ……」


 思わず絶句する。意味がわからないほど、柚月は幼くはなかった。それでも耳を疑ってしまう。……今、彼女はなんと言った?


 普通の男だったら。これ幸いとして貪り尽くすのかもしれない。美しく無防備な少女の脚が絡み付いて、蕩けた顔で自分を求めている。寝巻きははだけて、浮いた鎖骨や白い胸元が露わになっている。薄い寝巻き越しに、二つの胸の頂が存在を主張している。


 雨宮が、柚月の手を取って己の頬に触れさせた。初めて触れた女性の頬は、白磁のように滑らかだった。桃色の唇が珊瑚のように艶めいている。かっと頭が熱くなる。――この唇は、きっと身体のどこよりも柔らかい。


「あなたが好き。大好き。だから、あなたに全部あげるの」


 耳元で雨宮が囁いた。柚月の耳たぶに彼女の唇が触れる。雨宮が触れたところを起点に、どろりとした熱が身体中を駆け巡る。彼女の熱い首筋から、南国の花が腐った時のような甘ったるい匂いが立ち込めている。絡んだ脚に腰を強く引き寄せられて、理性とは別のところが固く張り詰める。そのまま進むべきだと体が信号を送っている。


 落ち着け。

 落ち着け、と柚月は何度も自分に言い聞かせる。噂がまことかは知らないが、もしそうだったら軽音部の先輩の二の舞になりたいか。


 呼吸を整えて、柚月は現状把握に努める。この場合の「あなた」は、柚月を指してはいない。雨宮は誰かと自分を間違えている。おそらく彼女の求める「夜の神」。それでは自分にとっての雨宮小夜子は一体なんだ? 自分にとっての雨宮は、目的は違えど隣を歩く旅の仲間で、友人である。だからこの体勢は非常によろしくない。互いに対して、恋愛感情は持っていない。柚月も、雨宮も。


 今は。


 長く息を吐く。何度も何度も。身体中の全ての器官に、空気と、ひいては冷気が入るように。駆け巡る熱を鎮火させる。


「先に謝っておく。……すまん」


 足は動かせない。手は雨宮とこれ以上密着しないように突っ張っている。

 柚月は唯一体の自由が効く場所を大きく振った。唯一動かせる――頭を。

 ゴツ、と固いもの同士がぶつかる音が響いた。瞬間、皮膚を通して、骨と骨に強い衝撃が起こる。

 雨宮が小さく呻いた。

 腰にまとわりついていた戒めが解ける。雨宮の額から、己の額を離す。

 真下の雨宮は気を失っていた。白い額に赤い痕が出来上がっている。痛みに慣れていないのだろう。

 体を完全に離せたところで、ようやく生きた心地がした。


「危なかった……」


 心臓が早鐘をうつ。隙間風が、熱くなった体をちょうどよく宥めていった。

 自由になった右手で、額をさする。これから引き起こされたかも知れない過ちに比べれば、額の痛みも安いものだ、本当に。

 後一歩で間違いを犯すところだった。




 気を失った雨宮を、敷きっぱなしの布団の上に横たえた。今しがた感じた柔らかさを意識しないように。乱れた髪やはだけた寝巻きが目の毒だ。


 雨宮の部屋は、驚くほど何もなかった。こたつにもなりそうな四角いローテーブルに、布団。鴨居には、制服と、いくつかの私服が吊るされている。どれも黒いワンピースだった。電子レンジと冷蔵庫。洗濯機は外にあるらしい。家電はそれぐらいで、テレビすら部屋にはなかった。冷蔵庫の中を見るのは憚られたが、部屋の中には調理器具らしいものも、食べ物らしいものも何一つ見当たらない。

 生活感がまるでない。彼女は、霞でも食べて生きているのか。


 雨宮の顔は先ほどと変わらずに赤い。熱が高いのか、時折うなされている。……先ほどの雨宮の行動は、高熱が引き起こした一時的なものだと結論づけた。


 柚月は鞄からハンカチを出して水で濡らした。水道は止まっていなかった。固く絞って、雨宮の額に置いた。眠る雨宮を見るのは三回目だ。三回とも、体調が不十分だった。雷で怯えた時、剥製のように静かだった保健室。そして今。


 ……さまざまな疑問が浮かんでは消える。この間の「夜の神」にまつわる疑問ではなく、もっと生活に関わる疑問だ。ここで一人で暮らしているのかとか。両親はどうしているのかとか。どうやって生活しているのかとか。飯は食えているのか。光熱費をちゃんと払っているのか。

 雨宮の口が、小さく動いた。声にはならなかったが、口の動きでなんと言っているのか、柚月にははっきりとわかった。


 会いたい。

 何もいらないから、あなたに会いたい。


 固く瞑った目尻から、一筋の涙が流れた。柚月はそれを拭わなかった。彼女が涙を拭ってほしい相手は、この世でたった一人なのだ。先ほどのような誤解をするべきではない。そして、誤解をさせるべきではない。……柚月はもう、一回間違えている。


 彼女の中心は、いなくなった「夜の神」だけだ。がらんとした部屋は、山奥で無防備な顔を晒していた彼女の象徴のように見えた。世間も知らず、他人も受け入れず、歳のわりにものも知らない。雨宮が持っているものは、たった一つの願いだけ。


 出会った頃は潔いと思っていた。彼女の興味が、夜の神にしないことが。

 今では、そんな雨宮の切実さが、柚月にはひどく痛ましく感じられた。




 しばらくして雨宮の涙が収まったころ、柚月は彼女の部屋から出た。課題のプリントは、ローテーブルの上に置いた。ドアをしっかりと閉めると、疲労が一気にやってきた。このまま自転車に跨って帰らなくてはならない。


 アパートの階段を降り切ったところで、紺色のアクアの中から人が出てきた。浦賀峰厚生総合病院でも、夜の散歩でも何度か通り過ぎた車だ。


 四十歳ぐらいの女性だった。その人は柚月が出てくるのを待っていたらしい。黒いスーツを来た、それなりに綺麗な女性だ。いきなり柚月に近づいてくる。


「なんですか?」

「あなた、さっきあの部屋にいたでしょ?」

「……いましたけど」


 自分が誰か名乗ることもせず、開口一番、女性は柚月に勢いよく切り出してきた。あの部屋、と女性が指したのは、銀の蔵荘2–B。つまり、雨宮の部屋だ。


「あなた、誰? どうしてあの部屋にいたの? この間も、あの子と一緒にいたでしょ?」


 柚月は目の前の女性を、不快に思われない程度に観察した。粉雪のような白い顔。ほっそりとした背中や首筋。黒く、重力に逆らうような猫っ毛。この猫っ毛をミルクティーの色にすれば――


「俺は、あなたの娘さんの同級生です」


 柚月の言葉に、雨宮小夜子の母親は顔を顰めた。



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