第六話

 わたしが中学三年生になる頃、月読の咳はどんどん激しくなったように思います。それでも彼は、わたしに心配かけまいとピアノを弾いてくれました。サヨは何も心配しなくていいんだよ、と笑って抱きしめてくれました。母と義父が家にくる頻度も、前よりも高くなったように思います。義父は月読の背中をさすり、母はどこかへ連れて行きました。母が連れ帰った時、月読は鼻にスーッとついてくるような匂いを孕んでいました。


 触らないで。わたしの月読に触らないで。どこにも連れて行かないで。


「だめよ小夜子。月読君は体調が悪いの。あなたがべたべたしていたら、月読君も治療に専念できないでしょう?」


 嫌です。わたしから月読を引き離さないで。そう言っても、母は聞き入れてはくれません。


「サヨ、大丈夫だよ。すぐに治るから」


 そう言っても、月読の顔はどんどん白くなるばかりで、どんどん、家にいる回数が減っていきました。浦賀峰厚生総合病院、というところに通っているらしいですが、ちっとも良くなっていきません。

 月読が家からいなくなるのは、わたしにとって耐え難い苦痛でした。青い顔と冷たい指。早く治ってほしいと思いながら、彼が遠くに行ってしまうのは、足元に穴が空いたような心地がしました。

 わたしは一人で眠ることが増えました。雷雨の夜、雷の音が怖くて、わたしは耳を塞いで丸くなります。小さい頃から、わたしは雷が苦手だったのです。昔母と住んでいた家は、雷が落ちるたびに大きく揺れました。このまま崩れてしまうのではないか。そんな夜でも、月読がいれば何も怖くなかったのです。




 ……あの夜は、久しぶりに二人で過ごせる日でした。その日は母も義父も、仕事で東京に行ったきり、帰ってきませんでした。ソファに座って肩を預け合い、黒々としたグランドピアノをじっと眺めていました。


「サヨ」

「なあに?」


 その夜の月読は、少しおかしかったのです。何も語らず、何も弾かず。ただじっとしているだけでした。月読は、ぽつりぽつりと、雨が降るかのように吐き出しました。


「……本当はものすごく怖い。全然治らない。……この間、痰に血が絡んでいたんだ。その赤がものすごく……俺を知らないところに連れていく気がして」


 弱気な月読は初めてでした。いつもの穏やかな月読が、どこにもいません。ただ、目の前に迫ってくるかもしれない暗い現実に、怯えていました。わたしと同じように。

 わたしは首を振りました。彼に、そんな不安や恐怖は似つかわしくありません。どうかいつものように笑ってほしいと願いました。


「死んじゃだめ、死んじゃいや。あなたが死ぬなら、わたしも一緒に死ぬ」


 わたしは月読の胸に縋りつきました。本当に、本当にそう思っているのです。あなたのいない世界なんて、わたしはいたくないのです。


「……なら、サヨ。俺と一緒になろう」


 一緒? いつも一緒にいるではないですか。あなたとわたしは。これからも一緒に暮らし、ともに死ぬのです。

 そうじゃない、と月読は首を振りました。


「君と一つになりたい。可愛いサヨ」


 月読はわたしを持ち上げて、柔らかい布団の上に横たえました。抱きしめてくれるのかと思ったら、違います。

 目の前には潤んだ瞳の月読がいます。わたしの体を覆い被さるような体勢で、彼は熱い息を吐きながら耳元で囁きました。


「出会った時からずっと好きだった。俺のサヨ。可愛い俺のサヨ」


 荒い息。切迫感のある瞳。優しく抱きしめた手が、わたしの頬をなぞり、首筋を通り過ぎて、シャツのボタンを外していきます。一つ一つ、丁寧に。わたしの胸は、年相応に大きくなって、無防備な姿を月読に晒していました。全てのボタンが外されて、月読はわたしの胸をいとおしげに触れてきました。


 彼が何をしているのか、わたしにはわかりませんでした。……頭が、理解するのを拒否してしまいました。いいえ、本当はわたしは、これが何かわかっていて、飲み込むのを恐れていたのです。


 わたしは月読が、好きで、大好きです。

 では月読のわたしに対する好きはなんなのでしょう。


「月読?」

「俺は死ぬかも知れない。その前にサヨが欲しい。サヨと一つになりたい。そうしないと、頭がおかしくなりそうだ」


 月読の唇が、わたしのそれに触れました。触れ合うだけではありませんでした。だんだん、月読の唇が、食べるように盛んに動きます。舌で唇を舐められ、わたしの口内に侵蝕し、暴れ回りました。彼の舌がわたしの舌をなぞり、口の中に新しい液体が作られていきます。月読は喉を鳴らしてわたしの中の液体を飲み干しました。

 体がぎゅっと締め付けられたような感触が襲ってきます。唇から唇が離れ、ようやくわたしは声を上げられました。


「だめ」


 いつの間にか、わたしはそう呟いていました。


「だめなことはない。君は雨宮。俺は音無。俺たちは家族だけど、家族じゃない。一緒に暮らしているけど、俺と君は……」


 その時の彼は、わたしの好きな優しい月読ではなかったのです。優しく抱きしめ、わたしを守ってくれる夜の神ではない。わたしという女を求め、貪り尽くそうとする、一人の男でした。

 彼の指がわたしの下腹に触れた時。ぞわと冷たい怖気が全身を支配しました。

 怖い。

 金いろの瞳が恐ろしい。

 やめて、と叫びました。叫びながら、自分の声に驚きます。絹を割くような声を出したことなんて、初めてでした。


「やめて。怖い。やめてやめて。いや。……兄さん!」


 兄さん。

 その言葉が合図でした。

 弾かれたように、月読がわたしの体から離れていきました。わたしは慌てて、シャツを合わせて胸を隠しました。


「ごめん、サヨ。ごめん」


 自分の行為を恥じている顔でした。銃で撃たれた人の顔のようにも見えました。恥ながらも、後悔しながらも、わたしの拒絶に傷ついている。わたしも、わたし自身に衝撃を受けていました。あんなに優しい月読を、わたしは拒絶してしまった。彼のことを兄さんと呼んだのは、その時が初めてでした。


 今まで呼んだことがなかった事実が、わたしたちに大きく溝を作ってしまいました。


 月読は黙って部屋から出ていきました。彼の背中を、わたしは追うことができませんでした。それが、わたしが月読をみた最後でした。




 その日から。

 月読は家から姿を消しました。




 月読がいなくなったわたしの生活は、何もかも意味を失ったように思われました。日々を何とかやり過ごし、初めてこの家に来た時のように、一人きりで夜を過ごすようになりました。たまに義父と母がやってきて、わたしの様子を仕切に心配していたようですが、そんなことはどうでも良かったのです。


 幸福だった夜の時間は一瞬で瓦解してしまったのが、わたしには無性に悲しく感じられました。

 ……あの時わたしが拒まなければ、わたし達はずっと温かい微睡の中にいられたのでしょうか。

 雷の夜が、わたしは一層怖くなりました。


 全てがあいまいに溶けていきました。母が病院に行こう、最後になるかも知れないからと言っても、わたしの心は遠くに行ってしまいました。この家で、もう一度月読に会いたかったのです。その後、義父と母が激しく泣いていたこと。黒い服を着た方々が、小さい遺影を見て憐んでいったこと。いろんな人の話が、左の耳から入っては右の耳へと過ぎていきました。

 写真の中のあの人は、やはり美しいけれど、わたしが欲しいのは写真ではなく、生身のあの人なのです。


 わたしが間違えたから。あの人はいなくなってしまったのでしょうか。

 なら、次はわたしは拒まない。


 あなたは生きている。母は嘘をついているのです。だから、早く、わたしのところに現れてほしい。わたしはあなたを探しに行く。

 ……あなたかも知れない人を見つけたこともあります。通い始めた高校にいた、一つ年上の、とても綺麗な人でした。音楽をやっているんだ、と、誰もいない音楽準備室で穏やかに話してくれました。

 ですがその人は、やはりあなたではなかったのです。触れる指も、出される音も、何もかも違っていました。


 わたし一人ではあなたは見つけられない。

 途方に暮れたわたしは、協力者を得ることに成功しました。その人は自分の目的も果たしながら、わたしに協力してくれました。


 早くあなたを見つけたい。わたしを見つけてほしい。そして、わたしの全てを奪ってほしい。

 望み続ければ、探し続ければ、再びあの人に会えるのです。




 ……妙に現実感のある夢を見たような気がします。わたしの部屋にあの方が現れて、抱きしめてくれたような。だけど目覚めたらいなかったのです。何度、わたしはあなたを想って涙を流したでしょうか。

 あくる日、久しぶりに、グラウトの『西洋音楽史』の下巻を確認しました。旅の仲間に指定された場所に、わたしは胸が苦しくなりました。


 ――旧音無邸。十月二〇日。午後十一時。


 わたしはそのメモを、胸に押し当てました。

 やはりあなたは、旅の仲間の姿を借りていたのですね。たまにあの人ではない誰かになっていましたが、音は嘘をつきません。


 あなたがわたしの探した――


「月読!」


 やっと見つけた。わたしの月読。わたしの夜の神。


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