第二話
雨宮が指定したのは、初めて会った時の山下南公園だった。11時半。前のように大の字で寝転ぶのではなく、ブランコに所在なく腰をかけていた。黒いいつものワンピース。黒いタイツ。月のペンダント。
「久しぶり」
山での一件以来だ。メモは交互に挟むことにしている。次は雨宮の番だったが、しばらく彼女からメモが挟まれることはなかった。雨宮は柚月の声に反応して、頭を上げた。そして、気まずげに目を逸らした。
「あの時は……。ありがとう」
感謝する、という宣言ではなく、感謝の言葉だった。
「まぁ、いい経験になったんじゃないの? 次はもっと、黒じゃなくて動きやすい格好にして、水分補給の水を持っていけばいいんだよ」
もっとも、次に山の麓に行って写真を撮る機会があれば、の話だが。できればただの水ではなくて、麦茶かスポーツドリンクか経口補水液で。できれば黒いワンピースではなくパンツで。できればローファーではなくスニーカーで。……そんな諸々の言葉を飲み込んだ。
しかし雨宮が普段の格好だから撮れた写真もあるのだ。
「約束の一枚」
雨宮に持参した茶封筒を渡した。彼女が頂ければいいと言っていた、階段の踊り場での一枚である。現像したら、黒いシックな格好の雨宮と、廃校特有の懐古的な寂しさが絶妙に似合った一枚になっていた。真昼の陽光を受けて、胸元の月が極彩色の光を生み出している。静の空間を、躍動的な月の光が彩る。文化祭には出せないが、撮った柚月自身も気に入っている一枚になった。
雨宮は写真を確認する。口の端を釣り上げて、大事に封筒にしまった。
「ありがとう」
「この写真の時、何を考えていた?」
岩永には渡さなかった一枚。窓辺に佇む雨宮の静かな立ち姿。細い指が窓にかかっている。真昼の月を、黒目がちな瞳が真っ直ぐに見つめている。何かに思いを馳せているように見えた。
「昼間、月って真っ白になる。だから、昼に歩くのも悪くないのね。あの人は夜の神だから、夜にしか現れないのかと思っていたから」
「いなくなるまで、夜にしか一緒にいなかったのか?」
「そういうわけではないわ。でも、わたしとあの方の思い出はやっぱり……夜が多いわね」
何も知らない人が聞くと、秘事のような内容だ。秘密の花園の中の、月下美人とそれを愛でている花守のような。雨宮と夜の神が、かつてどんな時間を過ごしたのか想像でしか出来ないが。
……きっとお互いに大事にしていたのだろう。それよりも奥行きのある邪推は遠慮被りたい。
「それにしてもあなたの写真、前よりもよくなったわね。綺麗に撮れている」
「……お褒めに預かり光栄でして」
岩永にも言われた言葉だ。今まで撮った写真は、そんなに微妙だったのだろうか。撮るのがうまくなったと思うことにする。
「あの人に見ていただきたいわ。わたしは前よりも、あなたに相応しく美しくなったのだと」
いつもの調子だ。いつもの、夜の神で頭がいっぱいの雨宮に戻っている。山の麓では、倒れる直前はだいぶ気弱になっていたから、平常に戻った雨宮を見て、柚月は安心した。
方面は決めていなかった。灯りもろくにない道を適当に歩く。前に青岩橋を撮った街中ではなく、逆方向に足が向いていた。傍の依田川が清らかな音を発している。
ゆっくりと歩く柚月と雨宮の横を、一台の車が通り過ぎて行った。紺色のアクアだ。こんな夜更けに珍しい。雨宮はアクアを見て、一瞬顔を強張らせた。
「……どうしたんだ?」
なんでもないわ、と彼女は首を振った。アクアの運転手と知り合いなのだろうか。
深入りせずに柚月は話題を逸らした。
「今度、ここ行こうかと思うんだけど」
浦賀峰厚生総合病院について話した。岩永に教えてもらったインターネット記事を雨宮に見せる。iPhoneから発せられる人工的な鋭角的なひかりが、闇に沈んだ町の中に浮かび上がった。月からはこの光が星のように見えるのかもしれない。
雨宮の顔が固まった。
「……ここなの?」
「何か知っているのか?」
紺色のアクアが、十メートル先で止まった。アクアが気になるのか、雨宮はちらちらとそちらを見やっている。
「行きたくないなら無理強いはしない。君には付き合わせることになるから」
「……いいえ、行く。あの人がいるかも知れないもの」
雨宮はアクアから目を逸らして、柚月の言葉に頷いた。
腹の底に力を込めたような瞳だった。
*
浦賀峰厚生総合病院は、柚月の家の最寄りの最寄り駅から、上り方面に乗車して4駅目の近くに立っていた。土曜日の四時過ぎに、最寄りの駅で雨宮と待ち合わせて乗車する。
駅を降りたときには、あたりは薄暗くなっていた。
日が落ちるのが早くなってきた。雨宮とローカル線に揺られて山の麓に行った時は、もう少し遅かった。雨が降らなければひぐらしの音が聞こえただろう。今は今で、別の音が聞こえるのかもしれないが。
「あの方はピアノの名手だったの」
病院に向かいながら、雨宮が静かに口を開いた。街中は田舎の小都市といった風で、柚月の住んでいる市と大差ない。シャッターが閉まっている店も多ければ人の通りも多くない。
「……眠れないわたしに、よくピアノを弾いてくださったわ。あの方が弾く『月の光』がとても綺麗で、本当に子守唄のようだった」
「他にはどんな曲を弾いていた?」
「そうね。ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』。『水の戯れ』も煌めきがあったわ。ドビュッシーは『アラベスク』もせせらぎみたいだった。彼の弾くものはどれも素敵だったわ。ショパンの遺作のノクターンも。でも、ごめんなさい。曲名はそれぐらいしか覚えていないの」
柚月は全音ピアノピースの難易度表を頭に浮かべた。六段階で、Aが一番優しく、Fが一番難易度が高い。『水の戯れ』は、音大生でも目指していなければ弾きこなすことは困難だ。彼女の「夜の神」は確かに、ピアノが巧かったのだろう。
しかし疑問に思う。雨宮が挙げたタイトルは『水の戯れ』以外は、どれも難易度はそれほど高くない。『水の戯れ』が弾けるのなら、同じぐらい難解な――例えば、ベートーヴェンの『テンペスト』。ショパンの『ノクターン』ではなくて『バラード一番』、リストの『エステ荘の噴水』も弾ける実力はあるだろうに。
この場合は「雨宮が好きな曲しか覚えていない」と言った方が正しいのだろうか。それとも、知らないのだろうか。
わかったのは、雨宮が「抒情的で美しく、緩やかで優しい曲」を一番好んでいることだ。彼女の好みに合わせていたのだろうか。古典派は似合わないと言っていたら、それは褒め言葉だと彼女は答えた。
夜の神が雨宮のために音を鳴らした時間は、ゆりかごのような甘い時間だったのだろう。未だ彼女はそのゆりかごの中で微睡んでいる。足りないのは、共にゆりかごの中で過ごすべき夜の神だ。
思考を打ち切って、一番抱いた感想を彼女に伝えた。
「それだけ上手いなら、俺も聞いてみたかったな」
「会えるわ」
雨宮が柔らかく、しかし強く断言する。
「あの方は近くにいるわ。この間、それを強く確信したもの。あなたも、きっとあの方の音が聞けるわ」
犬の鳴き声が、夕闇に駆け抜けた。鳴き声は街中から聞こえてくる。犬種はなんだろうか。ビーグルだろうか、ミニチュアシュナウザーだろうか。ビーグルだと良いな、と柚月はなんとなく思う。
病院が近づいたころ、雨宮がずっと聞きたかったのだけど、と切り出してきた。声が少し震えている。
「……山でわたしが倒れた時、他に誰かいなかったかしら?」
「他に?」
鸚鵡返しに尋ねる柚月に、雨宮は切実な顔で頷いた。
「俺たちの他には、「ガンダーラ」の爺さんしかいなかったよ」
「本当に?」
嘘をつく理由がないので、柚月は再び肯定した。別の客はいなかったし、「ガンダーラ」の爺さんはとてもよくしてくれたと答えた。
雨宮はあからさまに落胆した顔を作った。
「あの時微睡ながら、あの人が手を握ってくれた気がしたの。とっても優しい『月の光』も聞こえたわ。だから近くにいる気がして」
そうか、と適当に返した。……内心、冷や汗をかきながら。
それは自分がさっさと休んで欲しいがために行った行動だったのだと、柚月は口が裂けても言えないのだ。
道に取り付けられたカーブミラーに違和感を覚えて、ふと後ろを見やった。雨宮は気が付いていないが、先日の夜通り過ぎたアクアと同じ色の車が停車していた。
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