第三話

 夕日を背にした廃病院は、ひかりを浴びることを拒否するかのように、全体的に灰色に染まっていた。塗装が剥げてきて、所々に風化が始まっている。建物をぐるりと回ると、手入れをされることがなくなった庭やプランターに雑草が伸びていた。夏の山と同様に、虫除けスプレーを振りかける。雨宮に振りかけると、今度は驚かなかった。


 柚月と雨宮は、正面玄関ではなく、警備員のいた見舞い客専用の出口から入り込む。ここで誰の見舞いをするのかチェックしていたのだろう。黄ばんだ用紙とボードが見えた。


 非常階段を知らせる緑色のランプに、奇跡的に灯りがついている。光源といえばそれぐらいで、足元は薄暗い。人がいなくなった建物は温度を失う。暗さと、人家の絶無さが、温度以上の冷たさを生み出していた。

 受付には、蝋燭を持ったナイチンゲール像が設置され、壁には院内の見取り図が貼ってあった。九階建てで、一階にはロビーや受付の他に、コンビニ、や院内食堂などの販売スペースがある。二階は外来診療の待合室に、診療室。三階からが病棟だ。ナースセンター。ICU。中央手術室。人工透析室。MRI。血管センター。……霊安室。どこから見るか、雨宮と相談しようと横を振り向く。


「雨宮?」


 隣には薄暗い空気しか漂っていない。

 いつの間にか、雨宮が姿を消していた。

 先日、この病院について話した時も、反応がおかしかった。……この病院に何か因縁があるのだろうか。


 柚月は携帯ライトのスイッチを入れた。iPhoneのライトではバッテリーの消費が激しいので、予め買っておいた小型のライトだ。ぐるりとライトを回してみても、連れ合いの少女の姿は見当たらなかった。


 ライトを頼りに歩き出す。彼女には彼女の目的がある。それを果たすために、一人で探しに行ったのだ。柚月はその邪魔をしたくはなかった。

 柚月は階段を上った。人もおらず、風化しつつある無機物しか存在しない空間に、柚月の足音だけが甲高く鳴り響いた。



 ……かつて医療の現場だったところには、廃校や廃工場とは違う暗さがあった。生と死の間。誰かの泣き声やうめき声が聞こえてきそうだった。メスの音。心拍を図る音。内臓からぐにゃっとした血が噴き出る音。


 カツンカツン、という足音が嫌に響く。リノリウムの床はあまり響かない筈なのに。廃墟になったからだろうかと考えながら、柚月はひたすら歩いた。


 外来の待合スペースは、ひとつひとつソファで、閉鎖前ならさぞ座り心地が良かっただろう。血液センターの中は、使用済みなのか定かではない注射器が、大量に散らばっていた。地震か何かの時にぶちまけられたのだろうか。中央手術室では、メスや鑷子が銀色のプレートの上に規則正しく並べられ、かと思ったら緑色の手術着が床に乱暴に脱ぎ捨てられている。手術中のランプは、当然ながら消えていた。CTやMRIなどの大掛かりな機材も、そのまま巨大なオブジェになっていた。流石に霊安室の近くを通るのは憚られた。ナースセンターでは旧型のパソコンが並べられ、ストレッチャーが病棟の廊下に転がっている。それぞれの病棟には、担当する看護師の名前が壁に書かれていた。


 ひとつ一つ写真を撮ると、廃校やプールで撮った時とは違う、氷を張ったような緊張感が込められていた。


 受付のナイチンゲール像。

 巨大なCTスキャン。

 大量の注射針。

 人のいない診療室。

 ランプのついていない手術中の文字。

 血のついた医療廃棄物。


 液体が漏れたり、気化のはじまったさまざまな薬品の瓶。全ての薬品の匂いが混じり合って、アンモニアのような匂いを辺りに漂わせていた。


 写真を撮り、靴を鳴らしながら雨宮を探す。巨大迷路のように成り果てた病院。他の人の気配は、今の所感じ取れない。他に肝試しや廃墟探索に来た人間がいなかったのが救いだった。生と死の狭間のような病院を住処にするホームレスもいないらしい。なるほど、これなら猫も住み着かない。


 所々、窓ガラスは割れている。たまに外の空を見やると、茜色から藍色に変わっていた。時計を見ると――七時前。少なくとも一時間以上、この廃病院を歩いていた。それは雨宮とはぐれた時間も意味していた。


 歩き疲れて、比較的清潔そうに見える椅子に腰をかけた。五階の病棟の、小児科の応接スペースだ。子どもが読みたがるような絵本と、おもちゃが転がっている。いい加減、雨宮を探さなくてはならない。自宅の最寄りの駅に着くまで、それなりに時間がかかる。その上に電車の本数は、渓谷沿いを走るローカル線ほどではなくても、本数は少ない。



 その時。

 全く唐突に、可愛らしい犬の鳴き声がした。


 鳴き声のした方向に目を向けると、小型のビーグルがちょこんと座っていた。……柚月は思わず目を剥いた。


「チヨ?」


 名前を呼んだ犬に、よく似た犬だった。病院に、犬。交われない二つの要素が、ここが閉鎖されたことによって重なり合う。


 チヨのはずはない。はずがないのに。

 犬は元気よくかけていく。柚月は犬の背中を追うべく走り出す。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る