第四話

 たどり着いたのは、小児科の病棟の中の、一つの病室だった。


 時間が経って虫が湧いてきているシーツ。リノリウムの床には、ナースサンダルやナースコールが散らばっている。子供用のベットで、全体的に可愛らしくデザインされているが、リクライニングが壊れていた。点滴の袋が破けて、床に水跡を残していた。床にはチラシが散乱されていた。棚の上の花瓶には、枯れた花が活けてある。花びらが落ちて、白い花弁の縁が茶色くなっている。花瓶の中を覗くと、水はどろりとした緑色になっていた。


 野良犬が迷い込んだわけでもなく、当然ながらチヨでもなかった。そこにあったのは、犬のぬいぐるみだった。ビーグルの形で、枕になりそうなほど大きかった。生地には穴が空いていて、ビーズの目玉の止めが緩くなっている。ベッドの上で、持ち主を待っているように見えた。

 誰かの病室だったところ。……ここにいた誰かは、ちゃんと退院できたのだろうか。衛生的ではない犬のぬいぐるみを拾い上げる。


「……馬鹿だ」


 声に出して言いたかった。チヨはもういないと分かりきっているのに。似たような犬の幻を見て動揺した自分に腹が立った。

 犬のぬいぐるみを元の場所に置いて、病室を出ようとした。足元が危険なので、チラシを掬い上げる。……そのタイトルに、手が止まった。


「第三十四回、院内ピアノコンサート?」


 柚月はくしゃくしゃになったチラシを凝視する。

 病院によっては、院内でボランティアや職員によるコンサートが定期的に開かれる。この病院も例外ではなかったようだ。この病院では他に、闘病中の患者が弾くこともあったらしい。場所はロビーと書いてあった。


 チラシには、その会のピアノコンサートの趣旨が書かれていた。医療従事者によるピアノ演奏に……、今回は一人、入院中の患者が弾くらしい。プライバシーを守るためか、職員や患者の名前は明記されていなかった。演目を確認する。ショパンの一番オーソドックスな『ノクターン』、ハウルの動く城の『人生のメリーゴーラウンド』、星野源の『恋』などもある。入院患者やその家族に楽しんでもらいたい、という趣旨から、さまざまなジャンルが集まっている。


 ……一つだけ、病院に削ぐわないタイトルがある。

 これを弾くのはどうだろう、と柚月も首を傾げざるを得なかった。

 ラヴェル作曲、『亡き王女のためのパヴァーヌ』だった。


 このピアノはまだ、ロビーにあるのだろうか。ロビーは正面玄関を入ってすぐなので、そのままスルーしてうろつき回っていた。

 このピアノに会ってみたい。そう思って柚月は、階段で一気に一階まで降りた。




 階段を降りきって、受付、ナイチンゲール像、ローソンだったらしいコンビニ、会計、院内食堂を通り過ぎて、ロビーに向かう。正面玄関のロビーは、外来客が多く入ってくるからか、空間が贅沢に使われていた。


 ロビーは、ガラス張りの壁越しに、中庭が見える構造になっている。所々割れて、鋭い風が入り込んできた。九月の、秋になりたての冷たい風。


 誰もいないロビーには、グランドピアノがぽつんと置かれていた。


 ピアノの上の天上も、壁と同じようにガラス張りだった。ここは奇跡的に割れていない。それでもあちこちから冷たい風が吹いてくる。カバーもかけられていない。明らかに環境は悪いはずなのに、綺麗に保たれている。天井を仰ぐと月光が見えた。冬に向かって光が徐々に尖りだす手前の、秋の月。


 ヤマハのピアノだ。チラシの院内コンサートは、このピアノが使われていたのだろう。鍵盤蓋を開ける。鍵は掛かっていなかった。


 触らなければいいのに、同情心に負けた。あれ以来、触れることなどなかったのに。


 誰もいないこのピアノがあまりにも孤独だったから。さっきチヨに似た犬の幻を見たから。……この音が、どんな音なのか知りたいから。

 そんな言い訳を自分の中で繰り返す。



 トーン、と濁らない音。一年以上放置されたとは思えないほど、清らかな一音だった。トーン、トーンと繰り返す。調律するように。オーケストラの音合わせのように。

 


 天井からひかりが降り注いで、ぞわ、と昔聞いた音が流れ出す。

 


「ガンダーラ」の夢の中で再生された、あの人の音。

 頭の中で声が蘇る。

 あの人も最初、音合わせのように、弾き始める前に音を落としていたのだ。トーン、トーントーンと。右手の人差し指で。



 そうすると準備が入るのよねと恩田先生が笑った。


 ――目の前で。半径1メートル以内で弾かれた曲。恩田先生は傍で優しく見守っている。最初は湖水に揺らめく光。その後は、鮮烈にひかりが流れるように。曲が激しくなる。ゆらめきながら、音の詩情を歌い上げる。早く弾けば弾くほど、音は雑になるのに、その人のは独立した一音一音が、きちんとした輪郭を持っていた。ぼやけることなく。曖昧に誤魔化されることもなく。


 そうだ、あの時に聞いたものは。


 柚月は最初の音に鍵盤を置いた。三度の分散和音を平行して弾く。指に力を込めようとしたところで――


「月読!」


 道連れの少女の叫び声が響いた。

 柚月は鍵盤から顔を上げた。はぐれていた雨宮が、いつの間にかロビーに来ていた。息を切らして、信じられないものをみる瞳で柚月を見つめている。


「ツクヨミ?」

「そう、あの方の名前。……ねえ、今あなた以外に誰かがいたでしょう? こんな綺麗な音、あの方しか出せないもの。お願い。誰がいたのか教えて」


 茶色の猫っ毛が、額に張り付いている。音に反応して、走ってやってきたらしい。衣服を掴まんばかりに柚月に問い詰めてくる。瞳は切実さを物語っている。


「雨宮、落ち着け。俺が弾いた。こうやって」


 懇願する雨宮の手を宥めながら、トーンと柚月は音を落とした。ピアノを弾く時の癖だ。……柚月に曲というものを教えたあの人も、同じような癖を持っていたのだろうか。


 もう一度、トーンと落とす。


 割れた窓から、月光が差し込み出す。病院は不思議だ。どこからともなく薬の匂いがする。このロビーでは扱われていないのに。


「本当に、あなたなの?」

「ああ」


 雨宮は鍵盤と、柚月の顔を交互に見つめた。なおも信じようとしない雨宮に、柚月は再び指を鍵盤に落とした。

 トーンと響き渡る。

 ……雨宮の顔を見て、柚月は胸が詰まった。彼女は、泣きたいような、それでも幸せに満ち溢れた笑顔を見せていた。


「……さっきまで、病室に行ったの。当たり前だけど誰もいなくて。ここにいたって、母が言っていたから。でも、そうよね。あの方が、こんなところにいるわけない。やっぱり母の言ったことは間違いだったのよ」

「……母?」


 雨宮の口から、夜の神以外の誰かが出てくるのは初めてだった。思わず、耳を疑ってしまう。母。ここ。身内が誰か、この病院に入院していたのだろうか。


「ううん、なんでもないわ。今日確信できたの。あの方はわたしの近くにいるわ。……あの方は、わたしを守るために紛れることを覚えたのね」


 とろんとした熱のある瞳が、柚月を捉えて離さない。抱きつかんばかりに、距離が近くなる。

 何かを見つけたような顔だった。


「帰りましょう。あの方は近くにいる。それがわかっただけでも充分よ」


 もう用はない、と言わんばかりに雨宮がそっけなく踵を返した。正面から出ようとする雨宮に、柚月は静止をかけた。


「雨宮、ちょっと待て。……一枚撮らせてくれ」


 柚月はデジタルカメラを準備する。


 廃病院。薄闇の中、割れたガラスから差し込む光。がらんとしたロビー。所々に散らばるコンクリートの塊。あちらこちらで風化が始まっている。壁にはいくつものひびが入っている。


 その中に鎮座するグランドピアノは、傷ひとつ見当たらない。

 天板を開いて、支棒を立てる。譜面台も立てて、こうして今まで弾かれていたのだろうという、完全な姿にする。

 ……弾き手が映るように。その一枚から、先ほどの音が鳴り響くように。

 柚月はシャッターを切った。



 グランドピアノの天板は、星と月の光を受けて煌めいていた。全体的に灰色の暗さの中、黒いグランドピアノが、しっかりとした輪郭を生み出している。これだけは風化せず、ありのままの姿で弾き手を待っているように見える。風景の一つにはなっていない。白鍵は白雪の如く汚れのない色で、黒鍵は誰とも交わらない孤独の色を持っていた。


 天使の梯子のような月光。


 孤独は綺麗な色だ。だから、このピアノの音も清らかなのだ。

 ……このピアノで弾かれた『亡き王女のためのパヴァーヌ』の音を思い浮かべる。弾き手にとっての、王女がいたのだろうか。……その音は、きっとゆりかごのように優しかったのに違いない。


 全ての蓋を閉じて、出会った時と同じ状態に戻す。傍で待っている雨宮に振り向くと、彼女は「亡き王女」のような夢見る顔で微笑んでいた。


 再び胸が詰まる。


 柚月はなぜだか、強い不安を覚えた。今更ながらこの少女が、今までとは違った意味で心の底から危ういと思った。




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