第五話
帰りの電車にはすんなりと乗ることができた。雨宮と駅で別れた柚月は、家に向かう道すがら、彼女が言った「ツクヨミ」について考えていた。電車の中でも、彼女は終始無言だった。夢見るように目を瞑り、自らが抱いた「確信」に身を任せている。
ツクヨミ。
漢字で書くと、月を読むと書いて月読。確か、古事記に登場する夜と月を司る神の名前だ。あの方の名前、と雨宮が叫んでいた。「夜の神」にはきちんと名前があったのだ。
喉に小骨が刺さったみたいな引っ掛かりを感じている。
……どこかでこの名前を聞いたような気がした。正確には見たような。学校ではなくて、家でもなくて。
「月読」。
――○○くん、柚月くんに少し弾いてくれないかな。
先日見た夢では、恩田先生が登場してきた。顔も思い出せない、その〇〇くんも。月が泪を流したような綺麗な音がよみがえる。夢には、こういう続きがあった。弾き終わった後に、○○くんが笑う気配がする。恩田先生は静かに拍手をする。釣られて柚月も拍手する。呆然と。どうだった? と○○君が訪ねてくる。柚月はこう答えた。「ひかりが流れてくるようだった」と。
数回瞬きをして、その瞬間の記憶を頭の裏側に呼び起こす。
……そうだ、恩田先生はその次にこうも言っていた。「あなたたちは似ているわね。そっか、○○くんも柚月くんも名前に月が入っているものね」と。
ぼやけていた映像が少しずつ明確になっていく。ピアノに向かう細い背中。弾き終わった後に向けた顔は、やたらと綺麗に整っていた。恩田先生なら、誰だかわかるだろうか。いや、辞めてから結構経っている人間がこんな質問をしても、迷惑なだけだ。手がかりになるものが自分の記憶しかない。同じ教室に通っていた生徒の名前を知る術は……。
一つだけある。それは、鍵盤の記憶の中にあるはずだった。
自宅に着いたのは八時半を回っていた。父は居間で民放のバラエティを見ていて、母は台所で片付けをしていた。二人とも食事を摂ったらしい。各々の時間を楽しんでいる。
家に帰った柚月は、久しぶりにピアノの横の棚を漁った。バイエル、ブルグミュラー、ソナチネ、全音ピアノピースを入れたファイル。その中で取り出したのは、出演したピアノの発表会のパンフレットだった。出演した会は、記録のために捨てずに保管しておいたのだ。名前と弾く予定の曲が明記されている。
「どうしたの?」
台所で作業をしている母の美津子が、帰ってきて急に棚を漁り出した柚月に怪訝な顔をした。ちょっと確かめたいことがあって、と誤魔化した。飯はどうするのかと聞かれたので、あとで食べると適当に返した。
一番最初。小学校一年生の頃に出た時のパンフレットが見つかった。
音を追いかけていた原初の頃。
自分の名前と曲名を見ると、弾いたのは『もののけ姫』のテーマだった。アニメの曲だったような気はしていたが、まさかジブリのアニメ映画だったとは。全く覚えていなかった。てっきり『アンパンマン』とか『ドラえもん』とかだと勝手に思っていた。指先で名前をなぞっていく。桐島公平。小3。人形の夢と目覚め。衛藤夏海。小5。エリーゼのために。大河内翔太。小6。ガボット。
柚月の手が止まる。
音無月読。
その人は古事記に登場する、夜の神の名前を持っていた。
曲は――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます