第六話

 わたしが中学に上がる頃、月読は音楽大学に通うようになりました。通えるようになったのを月読は大層喜びました。わたしに常日頃から、ピアニストを目指しているんだ、と微笑んでおりました。


 難関な試験をくぐり抜けて合格した学校は、家からはだいぶ遠く、義父の仕事場と同じ東京にありました。しかし彼は、義父のようにアパートを借りることもなく、義父の仕事場に住むこともなく、わたしの住む家から通っていました。


「俺までそっちに行ってしまったら、サヨは一人になっちゃうだろう? それに、恩田先生にこっちでいい先生を紹介してもらったから、大丈夫」


 恩田先生は、月読が昔通っていたピアノ教室の教師でした。非常に優秀で、彼に音楽大学を薦めたのもその教師でした。家からは少し遠かったのですが、そのピアノの先生は大変評判がよく、遠くからも通っている生徒がいたようです。月読もその一人でした。会ったことのない彼の先生に、わたしは感謝するよりありません。恩田先生のおかげで、わたしは月読と離れずに済んだのです。


「サヨもやってみない?」

「わたしも?」

「うん。俺が通っていたところ。無理強いしない先生だから、きっとサヨも好きになるんじゃないかな」


 一回だけ、彼はわたしにピアノを初めて見ないかと誘いました。

 わたしはその提案に、首を横に振りました。わたしは音楽が好きなのではなく、ピアノを弾く月読が好きで、月読の奏でる曲が好きで、月読が落とす音が好きなのです。わたしが弾いても、わたしはきっとわたしの音を好きにはなれません。


 ……この頃から母は、彼にくっつくわたしを見て、苦言を呈するようになりました。義父はあまり気にしていないようでした。美しすぎて周りに馴染めない息子に懐くわたしを肯定的にみてくれました。

 でも母は違いました。


「あんまり月読くんにべったりしていないで、もっとあんたは外に行きなさい。外にも、素敵な出会いはあるのよ」


 わたしは母の言葉を受け流しました。普段からいない人に、そんなことを言われたくはありません。最近、非常に困ることに、車でどうしてかわたしの周りをうろうろとしております。旅の仲間と山に行った後、顕著になりました。わたしはその車を見ると嫌な気分になるのです。わたしの行動に文句を言われる筋あいなどないのです。


 わたしの一番は月読なのです。それは不変の事実です。

 そして彼の一番が、どうかわたしであってほしいと思うのです。


 わたしの神。


 彼はいつか、皆の前で喝采を浴びるピアニストになるでしょう。でも、わたしだけのピアニストの時間が確実にあるのです。それはなんと素敵なことなのでしょうか。


 ピアノはやらないと言ったわたしに、痰を絡んだ様な咳をしながら、彼は優しく微笑みました。この頃から、月読の顔がより一層白く、真昼の月に近い色を始めたものです。大丈夫? とわたしが尋ねると、サヨは何も心配しなくていいんだよと言って、わたしを抱きしめてくれました。まぶたにキスをされます。わたしはうっとりと瞳を閉じました。


 ここに彼がいる。それだけでわたしは何もいりません。……わたしは、何も案じなくていいのです。


 髪に絡みつく指は、死人のように冷たくなっていました。

 絡んだ咳は、わたしの前から消える直前までずっと続いていました。 


 だから今日、そこを訪れたときに鳴った音が、あなたの音だとわたしは思ったのです。月下の優しい一音。あなたはいなくなってはいない。そう確信できました。

 音は嘘をつきません。


 ……もしかしたらあの人は、別の姿になったのではないでしょうか。金いろの瞳はどうしても紛れ込めません。わたしを心配させないために、わたしを守るために。


 あの人は旅の仲間の姿を借りるようになったのでしょうか。



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