第四章 サナトリウム
第一話
夏季休暇が終わり、学校と家との往復の日々が戻ってきた。二学期はイベントが目白押しだと始業式の終わったホームルームで担任が話した。二回の定期テストの他に、十一月上旬には文化祭があり、下旬には進路相談がある。業者模試も行われると担任が言うと、教室内からは非難の声が上がった。
松崎は結局、夏季休暇の最終週に図書館に籠って課題をこなした。見せろと言われても頑としても柚月はノートを渡さなかった。必死に課題に向かう松崎の横で、柚月は静かに本を読んだ。教えてくれと頼まれれば、解き方やら考え方を教えた。その間も松崎は、早く二学期になって雨宮小夜子を遠巻きに眺めたいとぼやいていた。遠巻きに眺めるだけでいいのかと柚月が問うと、出来ればカレカノになりたいと松崎は欲望丸出しに答えた。一緒に山に写真を撮りに行ったことも、もちろん言う筈がなかった。
「お前は廃墟探検家にでもなるつもりか」
夏季休暇中は、あまり写真部の部室に顔を出さなかった。久しぶりに顔を合わせた岩永に、休暇中に撮りためた写真を見せて言われた言葉がこれだ。
真夜中のプール。廃校。一年生の教室の赤い丸。理科室のテーブルに置かれた頭蓋骨の標本。その裏手にある真っ赤な鳥居の神社。水溜りに落ちた月光の粒子。
「探検家って、廃墟は一つしかないでしょう。部長こそ、猫以外の写真はあるんですか?」
「ない。あるわけないだろ。俺は猫以外撮らない」
「……廃墟で猫撮ってきてくださいよ。猫のためならどこでもいけるでしょう」
「猫がいなかったらどうするんだよ。ただの廃墟だろ。こういう写真は俺の専売特許じゃない。ていうか、この写真で文化祭どうする」
机に並んだ岩永の写真は、彼の言葉どおり猫だらけだった。猫と廃墟。二人だけの写真部の展示を思い浮かべると、薄暗い写真と可愛らしい猫がずらずら並ぶ不思議な空間が広がった。写真の傾向も趣味も全く違う二人が展示をするとこうなる、といういい例だ。見る人間も戸惑うかもしれない。
「……まぁ、去年みたいに普通に展示するしかないんじゃないですか?」
去年の文化祭の時期も、写真部は部員は岩永と柚月の二人だけだった。写真を展示し、互いの作品を写真集にして一部100円で売り出す。去年と変わらない。
「そうだろうけど、これで見にくる人いると思うのか? 代わり映えがなさすぎる」
「十人に一人はいるかもしれませんよ。去年と変わらないって言っていても、写真を発表する以外ないじゃないですか。それに、殺到して見にきて欲しいわけじゃないでしょう。写真集の部数だって増やさないといけなくなりますし」
「……そうだよな」
岩永が柚月の言葉に頷いた。文化祭を彩るような、華やかなイベントとは無縁でありたい。それが、岩永と柚月の共通の思いだった。教室のかたすみでひっそりと自分の好きな写真を発表するだけで十分なのだ。
互いの写真を検証する。撮り慣れているからか、岩永の写真ははっと目を引く。まどろむ猫のピンク色の鼻。後ろ姿の黒猫の尻尾は優美な曲線を描く。塀に登る三毛猫の品のある佇まい。かと思ったら、野良猫と思しき二匹が、激しい喧嘩をする躍動感あふれる一枚が散らばっている。一瞬を捉えるのが上手い。全てを集めれば、猫好きならたまらない写真集になるだろう。
岩永は再び柚月の写真を検証した。
「これ、いいな」
岩永が良いといったのは、最後に撮った写真だった。神社の階段と、階段の周りの鎮守の森。赤い鳥居にかかるぽったりとした光。パソコンに保存した後、多少の加工はしたが基本はそのままだ。
「ガンダーラ」に泊まった翌日の朝。外はからっと晴れて、電車は何事もなかったように動き始めた。目覚めた雨宮の体調は回復していて、柚月は少し安心した。老爺はこれでも食べなさいと言って、柚月にはサラダとトーストを、雨宮には白粥を出してくれた。食後に飲んだコーヒーはやはり美味で、癖になりそうだった。
前日と同じように電車に揺られて帰る。雨宮の口数は、平常よりもさらに少なかった。何も言わずに最寄りの駅で別れる。家に帰ったら母親にやたらと心配され、ちゃんとお礼は言ってきたのかと問われた。……もちろんそんな出来事があったとは、口が裂けても言えない。誰にも言えない。
「この写真、タイトルは何にする?」
「『月の泪』ですね」
なみだ、はさんずいに目の方ですと説明した。いいな、と岩永が口の端を釣り上げた。
「しかしお前の写真、少し色気が出てきたな」
部長の瞳が好奇の色に染まっている。これとか、と岩永が提示したのは、夜のプールの写真だ。柚月と雨宮が水面にぼんやりと映っているものだ。そういえば、雨宮の白い足が単体で写っている写真もあった。その写真は、岩永はスルーする。
「一緒に心中する手前って感じで想像力を掻き立てられる。この子は誰だ? この学校の子か?」
「俺の写真の協力者です」
「なるほど。それでか」
岩永は目を細めて面白がる。変な邪推をされては困る。猫しか撮らない癖に、写真に対する勘だけは本当に鋭い。すべて見終えて、再び岩永が口を開く。
「お前、もう一歩狂気に踏み出してみた方がいいかもな」
「足りませんかね」
「写真そのものは、前よりも良くはなってるよ。でも、突き抜けた方が写真に個性が出る。今の方向性でも良くなってきたから、後もうひとつ目玉になる一枚が欲しいな。暇があったらここで撮ってきたらどうだ?」
岩永は自身のスマートフォンを操って、柚月にネット記事を見せた。
「浦賀峰厚生総合病院?」
確か、学校の隣の市にある総合病院だ。長年市の中心の総合病院として活躍していた。いた、という過去形で。高校に上がった頃、ローカルテレビ局のニュース番組で閉院すると知った。潰れた理由を、柚月は知らない。
「最寄りの駅からそんなに遠くないし、警備員もいないから。忍び込んで写真撮るぐらい出来るだろう」
「なんで潰れたんですか?」
「医療ミスって言ったっけな。ずっと赤字経営だったみたいだけど、そこに医療ミスが追い討ちをかけたってことだ。潰れて一年以上経ったけど、まだ建物の取り壊しの話が出てないらしいから。撮るなら今のうちだぞ」
廃病院。建物が朽ちる前独特の、醸されている匂い。人がいなくなると、廃れるのは早い。先日雨宮と訪れた廃校もそうだ。コンクリートと木造では根本的に違う。音の響き方が違うのだ。木造の方が音が鈍い。コンクリートの方が高い天上が多いから、鋭角的に響く。それでも同じコンクリートでも、場所によって音の質が違うように感じられる。あの場所では鐘の音。あの場所では鈴の音、のように。
かつて医療現場だったところは、どんな空間で、どんな音がするのだろうか。メスが動く音。心拍を測る音。酸素マスク越しに聞こえる息遣い。看護師がナースサンダルで歩く。リノリウムの床はあまり響かない。
「……お前、今すげえ顔したぞ」
「は? どんな顔ですか」
「めっちゃ楽しそうだった。撮るのが、楽しみで仕方がないって感じで。でも写真家なんてみんなそんな感じだな。自分が撮りたいもので、頭がいっぱいなんだよな」
しまったと柚月は内心焦った。自分のはらわたを知られるのは、「ガンダーラ」の老爺だけで十分だ。話をなるべく自然に逸らす。こういうのが上手くなったな、と内心自嘲しながら。
「……部長はどうしてこの話を俺に教えてくれたんですか?」
柚月は知っている限りの岩永のデータを思い浮かべてみる。桐央高校三年、写真部の部長。眼鏡をかけていて、神経質そうな優等生といった外見。成績は優秀で、どうやら大学進学を目指しているらしい。主な被写体は猫で、猫以外の写真は撮らない。岩永自身の言葉を借りれば、彼の頭の中は猫だらけ。
「いや、文化祭の展示というか、お前の撮りたそうな場所を調べていたら、そこが出てきたんだよ。別に大したことじゃない」
岩永は顔を逸らしながら答えた。後輩である柚月を慮っての話だった。頭の中は猫だらけではなかったと、何故だか失礼な感想を柚月は抱いてしまった。
「たまには先輩らしいことするんですね」
「……そこはありがとうございますって言うところだろうが」
部活の後、夏季休暇中に入り浸った図書室に寄った。グラウトの『西洋音楽史』の下巻を確認すると、メモが挟んであった。
見慣れた雨宮の字だった。
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