第四話
少女が身につけるものは一点の曇りのない漆黒だった。薄手のタートルネックの黒いセーター。夏に近づいているのに長袖だった。膝よりも少しだけ短い黒のスカート。スカートからのびる脚も、黒のタイツですっぽりと覆っている。肌の露出は顔と手のひらだけだ。胸の上に、三日月型のペンダントが浮かび上がっていた。見る角度によって光の色や質がわずかに変わった。それは妙にきらきらしく、漆黒の海とそれを纏う少女のすべてを支配しているように見える。しばらく凝視して、大の字になった彼女の正体を悟る。
「……こんな夜更けに、一体なにをやっているんだ」
柚月はポケットの中に入れていたiPhoneを取り出した。ボタンを押すと、犬用のガムをおいしそうに噛んでいるチヨの写真と一緒に時間が表示される。午前〇時半。勿論、同じようにこんな時間にうろついている自分がいえる言葉ではないと分かってはいる。
「あなたにそれを言う義務なんてあるのかしら」
質でいうならソプラノ。大気中に漂う、しっとりとした水素を含んだ声だった。
「義務はないけど、同じ高校の人間が深夜に奇妙な真似をしていたら、誰だって気になる」
「私を知っているの?」
「知っている」
髪の色と名前が一致しているだけで、話したことはない。それも今日、松崎が隠し撮りしたピントのぼけた写真で初めて見たのだ。顔ははっきりせずとも、写真の中心に映る淡いミルクティー色の髪は、目の前の人物との共通点だった。こんな髪の色は滅多にいない。同世代で思い当たるのは、ただ一人。
「雨宮小夜子だろ」
昼休みに話題に出た、松崎が気になっている相手。同じ高校の、二つ離れたクラスの少女だ。
間近で見ると、顔にうるさい松崎が騒ぐだけあって、客観的に見て美人であると素直な感想を抱く。緩やかな卵型の輪郭。透き通った白い肌と淡いミルクティー色の髪は、日本人離れした柔らかい色だ。顔を選ぶ色だが、彼女の顔立ちにはよく似合っていた。黒目がちの瞳は、夢のせかいを眺めているかのようにうっとりとしている。
「わたしを誰だか当てたあなたは、どこのどなた?」
「遠野柚月。桐央高校、2年3組。どうせ知らないだろ」
「ええ」
予想通りの答えだった。柚月も今日まで彼女を知らなかったのだ。大体、所属しているクラスの人間についても知らないことの方が多いのに。友人もいないような隣の隣に離れている教室なんて、興味が向くはずもない。彼女も、ここで話している隣人よりも、じっと見つめた先の空の方が大事なのだ。潔くていい。
雨宮小夜子は、音もなく口を開いた。
「夜の神を待っているの」
「夜の神?」
「そう。約束したのよ。ずっとわたしの側にいてくれるって。それなのにいなくなってしまって、とても困っているの」
「……その人は、今どこにいるんだよ」
「わからないわ。どこかにいると思うからこうやって待っているんだけど、ちっともきてくれないの。もういなくなってから長い時間経つのにね」
訳が分からず、とりあえず今の彼女を見つけたのが松崎ではなくてよかったと柚月は思う。彼女の言葉に対して、頭に盛大なはてなをつけるか、かなり電波的なのではないかと引いていただろう。恋の熱も冷めるかもしれない。冷めたところで、柚月にはどうでもいいのだが。
こんな電波女に興味はないし、関わりを持つ必要性も感じない。柚月はそのまま去ろうとした。
君の魂は えり抜いた一つの風景
とりどりのマスク ベルガマスクが 幻の国に引き込むように
リュートを奏で 踊りを踊り ファンタスティックな
仮装の下で ほのぼのと悲しく過ぎて行く
勝ち誇る愛 時宣をえた人生を
わびしい短調で歌いながら
自分らの幸せを信じている様子でもなく
彼らの歌は 月の光に溶けていく
木の間の鳥を夢見させ
大理石の像のさなかに しなやかな
噴水を 恍惚としのび泣かせて
悲しくも美しい 穏やかな月の光に
――空中に漂う水素ではなく、上流の清らかな水が流れる声に、柚月の足が止めさせられた。一編の詩を、雨宮小夜子が朗読したのだ。この内容に、柚月は覚えがあった。フランスの詩人、ポール・ヴェルレーヌの有名な詩。これを元にした名曲を知っている。作曲家の名前はクロード・ドビュッシー。十九世紀フランスの印象派の作曲家。
「『月の光』か」
雨宮小夜子の瞳が、僅かに動いた。反応に気にせず柚月は続けた。
「ガブリエル・フォーレ。ヴェルレーヌって言った方が正しいかな。フォーレはヴェルレーヌの詩を元に作曲したから。さらに言うと、ドビュッシーの『月の光』は、フォーレが大元だ。ヴェルレーヌとフォーレがいなかったら、あの名曲は生まれなかったかもな」
柚月が知っているものと、若干に表現の違いがあった。訳の違いだろうと踏んでいる。柚月を捉えた瞳が、わずかに好奇心に染まる。
「……驚いたわ。今までこれが分かる人なんて、あの方以外いなかったのに」
「昔、ピアノに通っていたから。そういう曲はそこそこ知っている」
「弾けるの?」
柚月はゆるやかに首を振った。
「『月の光』は好きな曲だ。弾こうと思ったし、その機会はあった。だけど、結局その時は別のものを弾いた」
柚月が通っていたピアノ教室は、二年に一度、十一月に市の小ホールを借りて発表会を行っていた。下は幼稚園の年少から、上は大学生まで。一度だけだが、社会人の姿も見たことがある。ジャンルは自由だったが、ジャズやポピュラー音楽を選ぶ生徒はまれで、ほとんどの生徒がクラシックを選んでいた。
柚月も例に漏れず、小学校一年生で始めて出た発表会以外はすべてクラシックを弾いた。一年生の時は何かのアニメの曲だったが覚えていない。ピアノを始めた原初の頃の記憶はあいまいで、曲の旋律よりも音色そのものを追いかけていたような気がする。三年生の時はモーツアルトの『トルコ行進曲』。五年生の時はショパンの『子犬のワルツ』。中学一年の時はショパンの遺作の『ノクターン』。
中学三年の六月。発表会は十一月だから、半袖でも暑くなった時期に教師と相談して決める。頭の片隅にあったのはクロード・ドビュッシーの『月の光』だった。繊細で、あいまいだが美しい旋律のピアノ曲。色彩が豊かな。かの作曲家でもっとも有名な曲の一つ。元々好きな曲で、冬に高校受験を控える身にとっては、前に弾いたショパンのノクターンと難易度が変わらないのもありがたかった。譜面だけ見て、運指をどうするかを確認し、頭に「どういう音が最適か」を想像する。これなら行けそうだ、と思った。
だが柚月が相談するより早く、教師の口が動いた。今回は私が選んだ曲を弾きなさい、と。
教師が渡した曲は、それまで柚月が弾いたものよりも長く、より指の動きが難解なものだった。
『意見はあなたにもあるだろうし、あなたにも弾きたいものがあると分かっている。だけど、私はあなたにこれを弾かせたことを絶対に後悔させないし、弾きこなせればこれはあなたの曲になる。だから、今回はこれをやりなさい』
教師の言ったことは正しかった。練習を始めたのは七月。約四ヶ月間一つの曲と向き合い、みっちり練習を重ねた後、その曲は自分のものになっていた。
聞きに来た父からも「凄かった」との言葉を頂戴したほどだ。その言葉は意外で、父の口から出た時に軽く目を見開いてしまった。
当時のことを思い出す。観客席は暗く、舞台だけが異様に明るく照らされている。市内の市民会館。ピアノはこういう会場には珍しく、カワイでもヤマハでもなく、ベーゼンドルファー社のピアノだった。学生服で弾いた。スポットライトに慣れたと思ったことなどない。それでもあの時、柚月の指は疲れ知らずで自在に動き、一つのミスタッチもなかった。一音一音が出たい音を出すことができた。
その後、発表会を区切りにピアノ教室をやめた。高校受験が近づいてきたから、一旦は辞めましょう、という話が自然と出てきたのだ。
以来教室に通うどころか、ピアノすらろくに触れていない。
そう言った事情は話さずに、ただ事実だけを雨宮小夜子に伝えた。
「あなたって変な人。こんな夜に徘徊しているし、すんなりとフォーレの名前なんてでてくるし、詩の一節なんてでてくるし。男の子なのにピアノなんて弾けるみたいだし。……ごめんなさい。ピアノを弾くのに性別なんて関係ないわね」
「性別より、徘徊っていうと不審者か痴呆老人みたいで嫌だな」
「十分不審者よ。わたしも。そしてあなたも。……わたしは答えたわ。次はあなたが話す番よ」
何と答えるのがこの場において正しいのか、柚月は測りかねていた。そして、自分が不審者であることを認めている彼女の客観性に驚く。異常には気が付いていたのか。
「散歩が趣味なんだ。それ以上に理由なんかないよ」
「それだったらもっと明るい時間でもいいんじゃないかしら」
「昼だと学校があるだろう」
雨宮の神経を逆撫でしないように。柚月は一番無難だと思った答えを、なるべく穏やかに返した。
「その顔、完璧ね」
「は?」
何を言われたかわからず、柚月の口から頓狂な声が漏れた。
「絶対に不快さを与えないわ。あなたの事を皆いい人だと思うでしょう。あなたが、その顔の裏でべつの事を考えているなんて、誰も思わない。……あなた、心の中を疑われたことなんてないでしょう」
対する雨宮の声は、淡々としていた。目の前の人間に対する興味など欠片も持っていないのだ。そんな彼女が、柚月の本質に触れた。心の中で両手を上げた。だからだろうか。柚月は少しだけ真実を話す気になった。
「……死体を綺麗に飾れる場所を探している。昼間だと探しづらいから、夜の方がいい」
彼女のことを奇妙だと言えたものではないと自覚していた。
「どうして?」
「どうしてだろう。正直、理由は、今の君に話したくないな」
その答えも、もしかすると雨宮より異常かもしれない。真意を知ったら、大の字で寝転ぶ雨宮にも冷ややかな瞳で見つめてくるだろう。
「もし、今ここに倒れているわたしの息が止まっていたとしたら。あなたはどう綺麗に飾ってくれるのかしら」
しかし彼女は柚月の答えを軽蔑したりはせず、逆に全く予想しなかった問いを投げてきた。
山下南公園の敷地は完璧な円のかたちだ。全面に渡って薄く砂が敷かれている。コンパスで綺麗に描いたような線の中に、ブランコや滑り台がある。円の淵を沿うように木のベンチが幾つか設置されている。シーソーのハンドルは動物の頭になっていた。ブランコの隣にある、一本だけの街灯が薄く敷かれた砂の円を煌々と照らしていた。
今このせかいに、三つの月が浮かんでいる。一つは誰もが知る、太陽の光を受けとめる母なる月。二つ目は、円形に砂が敷かれ、地上に生まれた人工的な光の月だ。街灯の光に照らされて、無機物の遊具は大小さまざまなクレーターを作っている。夢見がちな瞳で虚空を眺めるたったひとつの有機物は、ひそやかに咲いた月下美人のようだった。その月下美人の胸の中心に揺れるのも、また月の光だった。
……かつて柚月が発見した、おもちゃ箱の中のおもちゃのような死体を作った人間の立場で、この場にあるものを好きなように飾っていいと言われたら。
「どうもしない。そこでただ息が止まっているだけだとしたら、君はそれだけで十分綺麗な死体だ」
一枚の絵画。調和した楽曲。加工をしたらとんでもなく乱れてしまう。あるがままで美しいなら、そのまま何もしないに限るのだ。
緩慢な動きで、雨宮小夜子が起き出した。黒いワンピースには砂が散らばっている。星屑みたいにきらきらしく黒を装飾している。
「ねえあなた、わたしの旅につきあってくれない?」
不明瞭な笑顔で、柚月に告げた。柚月ではない、別の誰かを見つめているような瞳。
「旅?」
柚月は鸚鵡返しに尋ねた。
「夜の神を探しに行くの。あの方が迎えに来てくれる風はないし、どこかに行ってしまったから。だから、私が探しに行くの。あなたはわたしの旅に付き合いながら、あなたの目的を果たす。わたしはわたしの旅を続けながら、あなたの目的を手伝う。なかなか良い提案じゃないかしら?」
「断ったら?」
「どうもしないわ。そのまま一人で旅を続けるだけ」
柚月は頭の天辺から爪先まで、雨宮小夜子という人物を観察する。目の前の彼女の興味は、全て夜の神とやらにあるのだろう。
柚月はしばし考えて答えを出す。
「良いよ。その代わり、一つ条件がある」
何かしら、と雨宮小夜子は首を傾けた。
「写真を撮らせて」
目の前の彼女も、狂気の一歩手前なのだ。雨宮小夜子は、おもちゃ箱の中のおもちゃのような死体に似ていた。
おもちゃ箱の中のおもちゃのような死体は、薄い光のヴェールに包まれた幻想的な想像の海だった。あれを発見した時の自分が今のように写真が趣味だったら、撮らずにはいられなかったかもしれない。あれよりも完璧なものを撮れたら。そこで柚月は考えるのをやめた。
――雨宮小夜子は小さく頷いた。
翌日、いつものように電車に乗って登学し、普通に授業を受けた。昼休みに弁当を食べながら、適当に松崎と談笑する。色々とめんどくさそうだから、松崎には雨宮小夜子と知り合ったことは言わなかった。
食べ終わった弁当箱をランチクロスで包んで、柚月は席を立った。
「どこ行くんだよ」
「図書室」
松崎に苦い顔をされた。
通っている桐央高校は四階建てで、図書室は三階の奥の一室になる。専任の司書教諭はおらず、国語教諭が兼任で担当している。蔵書は五万冊を超えるが、それが学校図書館の中で充実しているのか、していないのかは、他の学校と比べたことがないから柚月には分からない。図書館は教室を三つつなげた程度しか広さがなく、自習のためのスペースがテーブル四つ分確保されている。
当たり前だが、余計な会話に興じている人間はいない。柚月は図書室の「音楽」の棚に進んだ。
上下巻からなるグラウトの『西洋音楽史』の貸出カードは真っ白だった。柚月はそのうちの下巻を取り出してぱらぱらとめくる。この本が図書館に入荷されたのは、少なくとも柚月が入学するより前のはずだが、手垢や折り目などの――誰かに読まれた痕跡が全くない。新品の様相を保ったまま、古書のにおいだけを纏わせていた。
『西洋音楽史』の下巻。印象派。ページに挟まれたものを抜き取る。
「五月二十七日、夜11時。桜が丘自然公園」
ルーズリーフの端を切り取った紙切れには、可愛げのない字でそう書いてあった。
以来、柚月は雨宮と共に、密かに夜の散歩に出かけるようになった。待ち合わせの場所はある時は柚月が、ある時は雨宮が決めた。指定場所を書いた紙を、グラウトの『西洋音楽史』の下巻の中に挟んで、昼休みに図書室に行って確認する。学校での関わりはそれぐらいで、廊下ですれ違っても不干渉を貫いている。移動教室の時に雨宮とすれ違った際、松崎がその姿を目で追っていた。制服姿の雨宮は、柚月の目に不自然に映った。
そして本日に至る。
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