第五話

 六月中旬。国道を跨る鹿の交差点で待ち合わせた。新月の夜に、柚月は雨宮小夜子と、ろくに会話もせずに淡々と歩いていた。一定のリズムで、走ることもなければ、過剰に遅くなることもない。初夏の空気は生き生きとした新緑を含んで騒がしい。昨日雨が降ったからか、足裏で捉えるアスファルトの感触が柔らかく感じられた。鹿の交差点から、目指すのは、街中の岩魚川を跨がる青岩橋だ。途中、自動販売機で缶コーヒーを買って喉を潤した。雨宮の分は買わない。前に彼女の分を買って渡しても飲まなかったからだ。


 静まり返った街中は、コンビニや街頭以外の灯りが消えていた。山の中腹からみると、北関東の田舎らしい、控えめな夜景が見えるのかもしれない。

 ふと柚月は疑問を口にした。


「そういえば、いつもメモを挟んでいるのはなんで『西洋音楽史』の下巻なんだ?」

「下巻にはわたしの一番好きな作曲家がいるからよ」


 ドビュッシーか、と柚月は予想する。最初に読んだ詩もヴェルレーヌだった。ドビュッシーではなければ、同年代ならラヴェル。でも、ラヴェルよりもドビュッシーだろう。アラベスクや月の光の、不協和音も混ざるアルペジオは、一本の線を水でぼかしたような曖昧な色彩をしている。柚月はこの曖昧さが雨宮だと感じる。相容れないのがモーツアルトだ。有限の一音に、調和した無限の世界を閉じ込める。自分の感性だけで生きる彼女には、調和という単語は不釣り合いだ。


「何を考えていたのかしら」

「君に古典派は似合わないと思っただけだ」

「褒め言葉として受け取っておくわ」


 柚月の言外の思いを受け取ったのか、雨宮は素っ気なく答えた。音楽に興味があるのではなく、自分の好きなものにしか興味を示さない彼女の姿勢は、しかし何故か柚月には好意的な印象を持たせた。最初に会った時と同じ感想を抱く。つまり、潔くていい。


 静まり返った街中で、たどり着いた青岩橋はぽっかりと白く浮いている。手すりに触ると、錆は見当たらなかった。最近ペンキを塗り直したのか、シンナーの匂いがする。


 欄干の背はそれほど高くない。雨宮は欄干に腰をかけた。少し体を前のめりにしただけで、川底に落ちる。ここは自殺の名所ではない。だけどその気になれば簡単に命を落とせる。そんな危険な場所に、曖昧に揺蕩う少女がつま先を揺らしている。風が吹いていないのが救いだ。


「大丈夫よ、自分から死ぬつもりはないから」

「気にしないで。その心配はしていないから」


 本当だった。言葉通り、柚月は雨宮の自殺の可能性を信じていない。雨宮は危ういが、「夜の神」とやらに再び会うまで自分から命を落とすような真似はしない。そんな確信があった。


「夜の神ってどんな存在?」


 神と雨宮が表現するので、人と言うのは躊躇われた。適当な単語が思い浮かばず、「存在」と聞くことにする。柚月と雨宮は、一応は相互協力の関係だ。姿や人となりを知っていなければ、柚月は何も協力できない。

 常人が見れば――例えば松崎が見れば鼻の下を伸ばしそうな笑顔――で、雨宮は言い募る。


「そうね。まず、この世の全ての美しいものを集めてみて頂戴。宝石でも花でも人でもなんでもいいわ。そんなものでも、あの方の美貌には叶わないの。唯一匹敵するものだって、今は姿を見せてないわ」


 つまりは雨宮にとって、人知を超えた美しい存在だということだと柚月は理解する。


「君の首にかけているものよりも?」


 雨宮は目を細めた。肯定の意味だ。彼女の胸には、今日も三日月のペンダントが光っていた。相当気に入っているらしく、これを首に下げない日はなかった。姿を現さない月の代わりのようだった。


「今日は会えそう?」


 これには彼女は答えなかった。


 今日も雨宮の願いは叶えられないだろう。だから、柚月は自分の目的を果たすことにする。

 褒められた行為ではないと承知で、柚月はからになった缶コーヒーを川底に向かって投げてみる。缶は空中で何度か回転する。銀色のプルトップが時折きらりと鋭い光を放つ。缶の金色の胴体も、決して闇に溶けることはなかった。放物線を描くまではゆっくりだったが、落下するのは早かった。重力に逆らわずにまっすぐに落ちていく。


 ややあって控えめに水音がした。あまりにも細やかで、耳を澄ませていないとわからなかったぐらいの小音。闇に吸い込まれるような。


「夜の川はブラックホールに似ているな」

「そうね。静かで、命を潤す川というよりも、死んだものを流す川みたい。その中でも花は咲くのかしら」

「さあ。もしかしたら、こういう中にも宝石はあるのかもね。今投げたものが川の中で科学変化して、川底の花になるのかもしれない。月が出ていれば、その光だって吸い込むわけだし」


 柚月はデジタルカメラを構えて、川底を撮った。シャッターを切る、小気味いい音が夜空を駆けた。川はほとんど黒にしか写らない。その中でわずかに白の点がいくつか混じっている。これが光だ。遠くからの街頭の光り。先ほど投げた缶コーヒーの、鈍い銀の色。この中で沈んだ死体を思い浮かべる。ブラックホールなら、内臓も腐らずにそのままの姿を保てるのだろうか。


「本当はそれを落としてみたい」


 それ、とさしたのは雨宮のペンダントだ。会うたびに首にかけているそれを川底に落とせば、宝石よりも綺麗に燦めくだろう。


「申し訳ないけれど、これは夜の神がわたしにくれた大事なものだから渡せないわ。想像だけで留めて」

「わかっている。言ってみただけ。……撮るけど平気?」


 雨宮が頷くよりも早く、柚月はカメラを構えた。相変わらず自分好みの画になる少女だ、と感心する。

 写真部の岩永部長が言うような、明るくて、いわゆる爽やかな写真を撮ろうとは思わない。青い空に、白い雲。そのような健全さに満ち溢れたものは、そういうものを撮りたい人間に任せればいい。柚月は自分から撮りたいとは思わない。


 それもあの時の死体が関係している。


 柚月は雨宮に向かってシャッターを切った。


 欄干に腰をかけて、遠くを見つめる少女。初めて会った時みたいに、白い肌と三日月のペンダントだけが奇妙に浮かび上がっている。不健全な美しさが彼女に宿っている。



 朽ち果てる一歩手前に咲いた月花みたいだ、と思った。



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