第六話
わたしが月読と出会ったのは、わたしが九歳の時でした。
配偶者同士の紹介だったらしいのです。わたしの母は、月読の父と再婚し、義父の家に住むことになりました。母の前の相手、すなわちわたしの実父について、わたしは何も覚えていません。わたしが二歳の時に離婚したそうです。その理由もわたしは知りません。詳しく聞こうとは思いませんでした。母の髪は黒かったのですが、わたしの髪は柔らかな栗色をしております。実父は、欧州方面の方だったのかもしれません。
新しい父となった方は資産家で、また仕事も多忙でした。仕事の関係で東京とわたしたちの住む家を行ったり来たりしていましたが、東京に借りた部屋にいることの方が多かったのです。母も新しい仕事を始め、またそこも東京で、義父について行くことが増えました。
わたしは必然的に、月読と二人きりで過ごすようになりました。
ずっと母と二人だったわたしにとって、歳のそれなりに離れた男の子と家族になるのは、恐れと戸惑いの感情が強かったのを覚えています。一緒に過ごすようになってしばらく、わたしは彼を避けるようにしていました。学校から家に帰ると自室に入り、食事だけを彼と並んで食べて、そのあとは再び部屋に籠る生活をしていました。
初めて会った時から、月読は夜と月が愛し合って生まれたかのような静かな美貌を持っていました。透き通るほど白い肌。高い鼻筋に、柔らかく引き締まった唇。そして驚くことに、彼の瞳は金色に輝いていたのです。わたしはその瞳が、幼心に恐ろしく感じました。人と違う色。神の証のような瞳に見つめられると身が竦みます。顔立ちの異常に整った人間は、それだけで畏怖の対象になるのだとその時に知りました。目を合わせて話すことができなかったのです。
義父の家は広く、いくつも部屋がありました。今まで母と暮らした、崩れ落ちそうなほど古い家とは、何もかも違っていました。古くて狭い部屋で母と隣り合って眠るのと、広い部屋で一人で眠るのは少し違いました。ここがあなたの部屋だよと与えられた場所は冷たく感じられて、なかなか寝付けなかったのです。今にして思えば、わたしは新しい環境に慣れることができなかったのでしょう。義父に対して嫌悪感を持っていたわけではありませんが、知らない人がやはり怖く感じられましたし、わたしを守っていた母がいつの間にか遠くに行ってしまったような寂しさが心のうちに残っていたのです。
夜、布団に入っても眠れずにいると、優しい音が聞こえてきます。どこかの家の誰かが練習しているのでしょう。それにしては素敵な音でした。毎晩、その音に抱かれるようにして眠りました。
わたしと月読との関係が変わったのは、ともに暮らすようになって三ヶ月が経った頃でしょうか。
窓の外から降り注ぐ月光がいやに明るい夜でした。冴え渡りすぎて、恐怖を感じます。前の日に、久しぶりに義父と顔を合わせたから、へんに緊張していたのです。そのまま彼は仕事の都合上、母もまた仕事で、この家から離れていきました。
目をつぶれども、深く息を吐いても、わたしの意識は底に沈まずに宙を浮遊するばかりでした。時計の針がカチカチ動きます。
……そんなわたしを救ったのは、やはり音でした。
月光に導かれるように、わたしは部屋から一歩出て、音の出所に向かいました。音は意外に近いところにありました。広い居間の中。食事をする、いつもの場所。
そこにいたのは、神の名前を持った少年でした。
いつも食事をしている居間にグランドピアノがあったことは知っていました。ですが、月読が弾けるとは思いもしなかったのです。長い指は自在に動き、一つ一つの音はひかりの粒になって流れていきました。
わたしはその姿から、目が離せなくなりました。そこにいたのは、家族になった……。
ぷつりと音が途切れました。わたしの顔を確認した彼が、鍵盤を弾くことをやめたのです。
「ごめん、起こしてしまったかい?」
彼は椅子から降りて、わたしの元にやってきました。
ふるふると首を横に振りました。そうじゃない、と伝えました。眠れなかったから来てみたら、あなたがピアノを弾いていた。弾いている姿が美しくて、弾いている曲もものすごく綺麗だったと舌足らずに言うと、ありがとうと目尻を下げました。
ここにいたらわたしは眠れるのでしょうか。グランドピアノの横には広いソファがあります。ふかふかで、寝心地が良さそうな。
「……ここにいていいですか?」
無理を承知で、わたしは彼に尋ねました。
「当たり前だよ。ここは君の家でもあるんだから。もう少し弾いているけれど大丈夫?」
優しく答える彼に、弾いていて欲しい、とわたしは伝えました。彼は金色の瞳を細めて、ありがとう、と言ってくれました。
恐ろしいと思っていた金色の瞳は、ちっとも怖くなかったのです。
彼はわたしの頭に手を乗せました。先ほどまで美しい音を出した長い指が、わたしの頭を撫で、何度も何度も髪を梳いていきました。優しい仕草でした。あまりの優しさに、わたしは少し身を固くさせました。それも一瞬だけでした。甘いゆりかごに抱かれるのがきらいな子どもがいるのでしょうか。彼に触れられているうちに、緊張は心地の良さに変わっていきました。
わたしはソファに座り、彼は再び黒いピアノ椅子に腰をかけました。先ほどと同じ曲でした。煌めく一音が流れていきます。聞いているうちに、とろとろとまぶたが落ちていきます。わたしはいつの間にか眠りについていて、次に目を開いたときには朝になっていました。知らないうちに、わたしの体には布団がかけられていました。
ピアノの方を向くと、彼が鍵盤を抱くように静かに眠っていました。
その日から、わたしは夜になると自室を出て、月読の弾くピアノに直に耳を傾けるようになりました。練習中だという彼の邪魔にならないように、静かにソファに腰をかけます。そのまま眠ってしまうこともしばしばありました。そういう時は、月読も同じようにピアノの椅子に座ったまま眠っています。だんだんと、神の名前を持った彼が誰よりも近しい存在に思えてきました。
弾いている姿を見るだけでは駄目なのです。もっと彼のことを知りたい。例えばそう。
「今の曲、なんていう曲ですか?」
あなたが弾いた、美しい曲について。
弾き終わった頃を見計らって、わたしは月読に尋ねてみました。今弾いていたものは、優しい哀愁に満ちていました。色で言えば、藍の中に白い灰が落とされたかのような。ショパンの遺作の『ノクターン』だよ、と教えてくれました。
「ノクターンってね、日本では夜想曲って書くんだ。ショパンはいくつかノクターンを発表しているけれど、俺はこの遺作が好きだね」
夜を想う。夜に属するというのだと付け足しました。
「あなたみたい。だって、あなたはいつも夜にしか練習していないもの」
彼が昼間に弾いている姿を見たことがありませんでした。神が怒りを発散させるかのような土砂降りの日も、空が濁った曇りの日も、いつだって彼が音を出すのは夜だったのです。あくまでも俺の感覚だけど、と彼は続けました。
「昼よりも、夜の方が音の調整がしやすいからかな」
「音の調整?」
「一つ一つの音には意味がある。意味がある音の連なりが旋律になって、曲になるんだ。昼はいろんな雑音があるから、少し調整しずらい。その点、夜なら静かだから、自分の出す音にだけ集中できる。その時間が、俺はたまらなく好きだ」
彼は人差し指を静かに鍵盤に落としました。トーンと混じり気のない音だと思いました。しかし、彼は納得がいかなかったようで、不満げに首を傾げました。もう一回、同じところに落とします。トーンと。
今度は余韻を持って静かに消えていきました。
「今の方が綺麗」
「そういうことだよ。……何か弾いてあげる。何がいい?」
「わたしのために?」
彼は静かに頷きました。
わたしのため。それは大変、心躍る言葉に聞こえてきました。しかし、曲の名前なんてわたしは知りません。流れてくる音が全てでした。考えて、考えて、浮かんだもの。
「あの、最初ここで弾いていた曲がいい、です」
ぽったりとした曖昧なひかり。線がぼやけている分、わたしのからだを包み込むような心地になるのです。
「『月の光』だね」
いいよと頷いて、彼は楽譜に向き合いました。
これがわたしと、夜の神たる月読との始まりでした。
夜の神よ。
あなたは今、どちらにいるのでしょうか。どうしてわたしを置いて、どちらかに行ってしまったのでしょうか。
わたしはあなたの姿を追って、毎夜彷徨い歩いているのです。
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