第二章 夜のプールは立入禁止で
第一話
窓の外から夕日が入り込んでくる。傾きかけた日差しは、目を細めてしまうほど鋭い光を放っていた。何故、終業式の日にこんな夕方まで学校にいるのだろうかと柚月は自問自答する。仲間内5人しかいない教室で、クーラーの音が静かに回っている。こんな時間までいるのは松崎のせいだ。iPhoneに表示された時間は、十六時半。下校時刻はとっくに過ぎている。
魚が跳ねたような音が聞こえる。水泳部がこんな時間まで練習しているのだろう。断続的に聞こえてくる激しい水音は、クロールだろうか、バタフライだろうか。甲高い笛の音。もっと脚を動かせと顧問らしき教師の声。遠くの教室からでもわかる。水が跳ねる。泳がなくては生きていけない魚のようにいきがいい。
「よっしゃ次であがり!」
「悪い松崎、俺の勝ちだ」
そう言って柚月は、手持ちの五枚のカードを披露した。
*
……線香花火が赤いカスミソウのように咲いては枯れていく。咲いた瞬間は彼岸花のように見えるが、花弁の細やかさはカスミソウのそれに似ている。自分が持っているのはカスミソウだ、と柚月は思う。彼岸に割くのではなく、死人を静かに送る客観性がある。ぽとりと赤が落ちる時、花の種が蒔かれた気がした。そこから咲く花は如何様な可憐さを持ち合わせているのだろうか。花弁も火傷するほど熱いのかもしれない。仲間内が思い思いに火の花を撒き散らしている様は、煙と汗が混じって独特の匂いを醸し出していた。
高校二年の夏季休暇がやってきた。柚月は渡された成績表を見て、「それなりに良い」を保っていることに安堵する。
終業式の日は野球部の試合の日――確か三回戦だか準々決勝だった――だが、当然柚月は帯同しなかった。野球部は結局、終業式の日の試合で負けた。派手に日焼けをして大会から帰ってきた岩永からは「来年はお前が行くんだぞ」と釘を刺された。せめて部員が増やせればと柚月は思うのだが、写真部に新入部員が来る気配は少しも感じられなかった。反面、野球部の大会の帯同が嫌だからという理由で部員が増えてほしくもない。人数が少ないのは気楽でいい。
花火大会の夜に、みんなで河川敷に行って見るのではなく、打ち上げられる花火を背景に学校に忍び込んで花火をやろう、と言い出したのは松崎だった。終業式の放課後、彼が仲間内を呼び出していきなり言い出した。
「大体花火大会なんてなぁ、リア充どもがリアルを充実させる為だけにあるようなイベントなんだよ! それよりも誰もいない学校に忍び込んで花火やった方がよっぽどロックだろ! ていうかお前等どうせ彼女いねーだろ。いたらぶん殴るけどな!」
そう声高に言い放った松崎は、数名の友人から決して少なくない物理的な攻撃を受けていた。柚月もそんな松崎を助ける気にならず、その様子を傍観する。別に花火大会はカップルばかりが集まるようなイベントではないし、夜中の学校に忍び込む計画をする人間だってリアルが充実した人間だ、と柚月は言いたくなる。
それでも長い休み中、何度か仲間うちで集まりたいという意見は一致していたので、松崎の計画に乗りかかることにした。
「あっついなぁ。柚月、そこのサイダーとって」
「……自分で取れ」
八月の第一土曜日が、市内の花火大会だ。学校の立地的に、河川敷で行われている花火大会の花火もよく見えた。空中に咲いた火薬の花を鑑賞しながら、手に持った火薬で遊ぶ。おもちゃ屋やコンビニでも売っている手持ち花火だ。校庭や校舎裏ではなく、プールサイドを場所に指定したのは柚月だ。プールには水がある。証拠隠滅しやすい。
「しかしこうも男ばっかりだと色気がねえな。本当にお前ら彼女いねえのかよ」
「いたら殴るって言ったのは誰だ」
サイダーを煽りながら松崎が言い放った言葉に、柚月は呆れながら反論する。仲間内は全員柚月に同調するように頷いた。
「誰か誘えばよかったじゃん。松崎、気になってる子いるんだろ」
「いるけどさぁ。綺麗すぎて声掛けらんないんだよ。クラスも違うし」
「珍しいな。松崎が声かけるのも躊躇しているなんて。どんな子?」
薄い興味を持ちながら松崎に話を振ったのは、坂下だ。黒縁の眼鏡をかけた小柄な少年だが、空手部所属だ。腕っ節が強く弁が立つ。花火をホームセンターで買ってきたのは彼だ。
「深窓の令嬢って感じ? で、綺麗」
「どこのどいつだよ。うちのクラスにそんなお綺麗なやついないだろ」
「うちのクラスじゃない。1組の雨宮小夜子って子」
ひゅっと口笛を吹いたのは、中野だ。顔立ちは俳優のように整っていて、耳にピアスの穴がいくつも開いている。見た目は若干軽薄だが、この五人の中で誰よりも成績がいい。
「あー、確かに。俺、同じクラスになったことないけど、遠くから見ても令嬢って感じするよなぁ」
「中野もやっぱそう思うか!」
中野と松崎が頷き合う。その横で柚月は、雰囲気はね、と心の中で付け加える。確かにあの美貌と纏わりつく雰囲気は、窓辺に静かに腰を掛ける令嬢そのものだ。日傘が似合いそうだ。しかしその令嬢の頭の中は一人の存在で占めていることと、まさか花火が終わったあとここに来るぞ、ということは口が裂けても言えない。
夏期休暇に入ってからは、図書館開放日に雨宮と連絡を取っている。午前中に図書室に行く。課題をこなし、「西洋音楽史」の下巻にメモが入っているかを確認する。柚月の番の時は、帰り際に新しいメモを入れて退室する。iPhoneもスマートフォンも持っていない彼女とは、それ以外に連絡手段がない。
雨宮と柚月は、初夏を過ぎ、梅雨を過ぎ、夏季休暇に入っても夜の散歩を続けた。雨の日は、予定の日の夜22時を過ぎても雨が降っていた場合は中止にすると予め決めていた。この取り決めは梅雨の時期に功を奏した。行き違いになることが一回もなかったからだ。
柚月は写真を撮り、雨宮は「夜の神」を探す。彼女の場合、人を探すというより、彷徨い歩いて向こうから見つけてくれるのを待っている、という表現が正しい。探しているそぶりが見えない。ぼんやりと歩く様は、柚月がいなければ夢遊病患者のようにも見えるかもしれない。
「柚月、お前なんで線香花火ばっかりやってんだよ」
「花火の中では一番好きなんだよ。楽だし」
「……花火をやるのに、楽とか考えるやつ初めて見たな」
「片付けが一番楽だろ」
火の花を咲き散らしながら、柚月は松崎を含む四人の学友とたわいもない話をする。部活動のこと、見た映画の話に漫画の話。菓子や飲み物も傍に用意されている。飲み物は全てソフトドリンクだ。場所が学校ではなかったら酒を持ってくるかもしれないが、そういう節度を持っている友人たちが柚月は嫌いではない。話題はあちこちを浮遊して、夏季休暇の課題に行き着いた。
「課題やったか。俺全くやってねえ!」
「流石にそれはやばくねぇ?」
松崎の素直な告白に坂下が呆れた声を上げた。じゃあお前も進んでんのかよと松崎がきくと、お前よりも進んでいると坂下が答えた。中野はこれからやると涼しい顔で言った。
「北村は?」
「後半分ぐらいかな。遠野は?」
北村は肩幅が広く、無骨そうな体格の精悍な青年だ。文武両道を地で行くような。実際彼は剣道部で読書家だ。成績も悪くない。
「残りは読書感想文ぐらいかな。それも明日には終わるよ。ちなみに本は三浦綾子の『氷点』な」
「……その本の選択は渋すぎねぇ?」
北村が若干引いた声を出した。図書室で適当に選んだのがこれだったのだ。じゃあ北村は何にしたのかと柚月が聞くと、三島由紀夫の『金閣寺』と返答された。
雨宮とのやりとりから、柚月は休み中も図書室に入ることが多くなった。メモの有無を確認するだけに登学するのは勿体ない。だが、図書室でやれることと言えば、読書か勉学に励むか、辞典を枕にして眠るぐらいだ。ただ寝るだけだと時間がもったいないので、課題を持ち込んで黙々とこなす。雨宮が連絡ツールを持っていないおかげで、夏期休暇の課題は驚くほどはかどった。八月の頭に殆ど終わるなんて初めてだった。
「何だよ柚月、ぜんぜんゆとり世代じゃないじゃねーか! 余裕で終わりますってか」
「事情がいろいろあるんだよ。親が勉強しないとうるさいんだ」
嘘だった。勉強しないからと言ってそこまでがみがみするような親ではない。勉学よりもピアノを弾かない方が、母から悲し気な目で見られる。母の美津子は柚月にピアニストになってほしかったわけでも、ピアニストにさせようとしたのではない。ただ、あれだけ好きだったのに、なんで簡単にやめてしまうのか、という目線を投げてくる。鬱陶しいと突っぱねるつもりはないけれど、それはなるべく向けてほしくない感情だった。
パシッと松崎が手を合わせて柚月を拝んだ。
「柚月! 課題見せてくれ! 特に数学と世界史と古典と漢文と、読書感想文を代筆してくれ!」
「却下。まだ時間あるし、教えるから自分でやれ。図書室の開放日は大体いるからな。課題もって図書室にこい」
ちぇー、ケチー! と松崎は新しい花火に火を付ける。縦状に火が伸びて、松崎の顔を明るく照らす。
「柚月、お前そんなに優等生だっけ? 最近お前、おかしくね?」
「おかしくない。普通だ」
「嘘だ! 中学の時は今ほどじゃなかったぞ!」
「松崎より生活態度がいいだけだ。普通」
「それは言えている。大体、読書感想文代筆したところで、遠野が書いたってバレるだろ」
同調したのは坂下だ。線香花火を手に、コーラを酒を飲むかのように喉を鳴らして飲み干す。
「そう言えば遠野って、トランプめちゃくちゃ強いよな」
「あー、それ、俺もビビった。だってお前、大貧民もポーカーもやったことないって言ってたろ? それで大貧民は大富豪あがりで、ポーカーに至ってはあんなもん出しやがって!」
坂下の言葉に、中野が乗りかかる。
「たまたまだよ」
烏龍茶で喉を潤しながら、柚月は適当に答えた。
今回の花火のもろもろの準備は平等にトランプで決めた。全てを同じゲームで決めるのではなく、一つ一つの係りを別々のゲームで決めたのだ。花火を用意する係りはババ抜き。菓子を用意する係りは神経衰弱。学校に忍び込んで場所を確保する係りは大貧民。そして、もし教員か警備員に見つかったときに犠牲になって説明する係りはポーカーで。結果、全てに関わったのが松崎で、全ての係にならなかったのが柚月だ。
……あんなもん、は最後のポーカーで柚月が見せたものだ。全てスペードのマークでの、10、ジャック、クイーン、キング、エースの五枚。ロイヤルストレートフラッシュ。
流石にロイヤルストレートフラッシュが出た時、柚月は自分でも驚いた。しかしそれ以外のゲームは、記憶力と観察力があれば大抵どうにかなる。誰がどのカードを引いて、どの位置にスペードのAがあるか。よくよく見ればわかるのだ。
「あー、俺もう一回柚月と勝負してえ! したら今度は勝てる自信ある!」
それは無理だと北村が松崎に突っ込んだ。柚月は心の中で同意する。もう一度同じ勝負をしても、松崎にだけは勝てる自信はあった。
「松崎はわかりやすいんだよ。大体、次に引く人間がいるのに次であがりとか言わないだろ。普通にやらないから弱いんだよ」
「このやろ、調子に乗るな!」
悪ふざけだとは分かっていた。松崎は笑っていたし、悪意はなかった。調子に乗ってねえ、と返すつもりだった。
松崎の下段蹴りが柚月の脛に当たった。
思いのほか蹴りの力は強かった。そういえば幽霊部員とは言っても、松崎はサッカー部だ。足腰の鍛え方が柚月とは違う。ぐらっと体が傾いて、遠くの空に咲く火の花が視界に入る。色とりどりの空の花は、近場にいれば火薬のにおいがするのだろう。手持ち花火の火薬とは比べ物にならないほど強い煙の匂いが。だが、学校にいる柚月の鼻まで届いてこない。だから、ただ光の欠片が空にばら撒かれたような綺麗さだけを純粋に感じる。咲くときの音も、近場で聞くときより小さくなって、犬の遠吠えみたいに聞こえてきた。
実際にどこかの犬が、空に向かって放射線状に声を投げた。
――チヨは花火が好きで、特に、音に被せてほえるのが好きだったのだ。飼っていたころ、家の二階のベランダに出て、柚月はチヨを膝に抱えながら花火を見ていた。彼方に咲いた火薬の匂いが、夏の熱気とともに届いてきそうだった。チヨの丸い瞳に花火が映る。傍に置いたコーラのペットボトルが汗をかいていた。
現実に映っているものとはじけた夏の花の思い出。全てが空にとけて消えていく。余韻も何も残さずに。
そして衝撃がやってきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます