第二話

 生乾きの服はじっとりと重い。水を吸い込んだ影響で通気性も悪くなっているから、生暖かい風をシャツが抱き込んでいるみたいだった。


「髪、濡れているわね」


 ――花火が終わり、証拠隠滅をして友人たちと解散したあと、暫くして雨宮が学校にやってきた。今は午後二十二時三十分。花火大会もとっくに終わった時間。河川敷には火の花の名残が残っているのかもしれない。破裂する音とともに一瞬咲いた花の残骸。


 時間と場所を指定したのは柚月だった。一度帰ってもう一度家を出るのが億劫だったので、二つの用事を一気にこなすことにした。


 松崎のせいで散々な目にあった。頭からつま先まで水につかり、身体中の穴に水が侵入してきた。塩素の入り混じった水を飲み込んだ。着衣でプールの中に入ると、服が重くて思うように動けないと初めて知った。自力で這い上がると、流石に松崎は素直に謝ってきた。シャツを脱いで絞ると、バケツを被ったような水が落ちてくる。生ぬるい夏の夜風のおかげで多少は乾いたけれど、気持ちの悪さは拭えない。iPhoneやカメラをポケットの中に入れていなくて本当によかったと思う。


「いい匂い。火薬のにおいね」


 火薬をいいにおいだと評する人間を始めて見た。全身が塩素の水に浸かったからか、柚月の鼻は火薬の方が希薄に感じている。


「さっきまで花火やっていたから」

「誰と?」

「友人と」


 雨宮はほんの少し目を見開いた。


「あなたに、花火をやるような友達なんていたのね」

「そんなに意外か」

「ええ。でもあなたは異常な趣味を持っていても、私と違って顔を作るのが上手で協調性があるから」


 たまに彼女は意外な客観性を挟んでくる。彼女の言葉は、私は協調性もなく仮面をつけるのが得意ではないという告白とも取れた。顔を作るのが上手い、というのは、雨宮なりの褒め言葉なのだろう。素直に受け取ることにする。


「夜のプールって中々素敵ね。あの中も明かりがないし」


 あの中、と雨宮が目を向けたところは、コンクリートで作られた巨大な校舎だ。コの字の形状。学期内なら、この時間でも職員室は電気がついている。その部屋も、休暇中で学生がいないからか、今は暗い。……だからこそ忍び込めて花火ができたわけだが。


「この学校のプールで昔事件があったのを知っている?」

「いいや」


 雨宮はタイツを脱いで、プールサイドに腰をかけた。白い足が現れたと思ったら、つま先からゆっくりとプールに入れていく。二本の脚は膝まで浸かった。ゆらゆらと緩慢に動く様は、生きているものが活動している、というより、死んだ魚が水の力で移動しているように見えた。静かな波紋が生まれる。体育にはプールが選択授業であるが、雨宮はやらなさそうだなと想像する。腰をかけた傍に、脱いだままのタイツが落ちていた。わずかに女性特有の芳香が残っていて、少女そのものよりも少女が身に纏っていたものの方が生を感じ取れる。


「随分昔の話だけれど、冬の夜だったみたい。この学校の生徒二人が、冬のプールに入って心中したそうよ。一人は女の子で、もう一人は男の子。恋人同士だったのね。でも冬にプールにくる人はいないから、発見は何日か後だったみたい。そうしたらこの二人は、抱き合ったまま水の中で時間を止めていたの。大昔の発掘死体みたい。きっと二人は、死んでも離れない。あの方と一緒なら、わたしもそうなってみたいわ」

「大昔の発掘死体?」

「知らないかしら。十年ぐらい前にイタリアで発掘された骸骨のことよ。若い男女が抱き合ったままだったみたいなの」


 永遠の抱擁というのだと、雨宮は柚月に教えた。

 淡々としながらも、今日の雨宮は饒舌だった。水を含んだソプラノの中に陶然とした熱が籠っているのを、柚月は聞き逃さなかった。彼女は心中した男女に憧れを抱いているのではく、自身が夜の神とそうなる姿を想像している。


 想像してみる。愛し合う二人の恋人がいた。しかし何がしかの理由があって、今後は別れ別れになることを定められた。しかし別れに耐えきれず、最終的には死んで一緒になることを選んだ。冬の水は冷たい。わざわざ学校のプールを選んだ理由を考えてみる。今は沈黙した校舎の中に、二人の思い出があったのだろうか。


 水の中で抱き合う二つの死体。


 柚月は、自分がそうなってみたいとは欠片も思わない。心中する人間の気持ちなんて、わからなくてもいい。


 だが、そうなった場面は多分美しく映ることだろう。一枚の画になるような。


 波紋を描いて静かに落ちる。吐いた息は気泡になって水中に咲く。波紋も泡も綺麗に消えて、残るのは時計の針を進めるのをやめた恋人たち。

 二ヶ月ほど前、橋の欄干に座る雨宮を見ながら、似たようなことを考えた。底無しのブラックホールのような川。今度は、水深が百五十センチメートル程度の夜のプール。あの時は新月で、今日の空は科学の煙が空を薄く覆っている。これも花火の名残だ。星々や月を煙で隠す。

 デジタルカメラを構えて、先ほど全身浸かったプールを撮る。


「その二人は、この中にいると思う?」

「いないわね。これではただの塩素の入った水。もう少し想像を掻き立てるような一枚にしなくてはならないわ」


 データを彼女に見せると、手厳しい一言が返ってきた。雨宮の言う通りだった。ただ闇に包まれただけの、面白みのない写真。くろぐろとしたプールの水に、輪郭のぼやけた手すりや水飲み場も写っている。もう一枚撮る。今度は水の中の、底まで可視化できるように。先ほどは角度上映らなかった雨宮の白い足が、画面の中に入った。


 死んだ魚のような白い足。

 二枚の写真を見比べて、思い立つ。


「雨宮、そこに立ってみて」


 水の中に入れとは言わない。断るだろうし、雨宮が風邪をひいても柚月は責任を取れない。


 だからプールサイドの、ぎりぎりのところに立ってもらう。そうすれば、水に写った雨宮の立ち姿がフレームに入る。雨宮は水から脚を引き上げて、柚月の指定した場所に黙って移動する。こういうが彼女のいいところだ。相互関係を崩さない。


 雨宮は生気が希薄だ。いつも淡々としていて、悪く言えば人形のようにぼうっと突っ立っている。水に濡れた青い足は、生気がない分奇妙な色気を醸し出していた。死んだ魚の、発酵する直前のぬめりのある光のような。


 柚月のカメラから、人工的な光が飛び出た。

 映った写真は確かに黒い海を描いている。だが、ぼんやりと、人影が水面に映っている。一人は雨宮。もう一人は、写真を撮った柚月自身。水の中で重なる二人の人間のような。


「悪くはない。でもあなたも写っているから、まるで私があなたと抱き合っているようで嫌ね」

「言えている」


 柚月は苦笑した。自分で撮っておきながら、本当に実感する。この女と心中するのは嫌だ、と。雨宮も同じのはずだ。それでも悪くない写真が撮れたと少し満足をする。


「あなたに見せたいものがあって」


 雨宮はおもむろに口を開いた。ワンピースの裾にはポケットがあったらしい。雨宮はポケットの中から、一枚の紙を柚月に見せた。

 新聞の切り抜きだった。廃校になった山奥の小学校。日付は三十年前だ。図書館でコピーしたものだと教えてくれた。一九九〇年八月二日。見出しはこうある。「廃校の復讐鬼、同窓生三人を殺害。会社員男性(28歳)を逮捕」


 三人の同窓生を殺して、分解したのちに、近場の山のあらゆるところに埋めたり隠したりしたのだという。警察はそのばらばらになった死体を見つけるのに苦労をしたようだ。罪状は殺人と死体遺棄。その後犯人がどうなったかは記事には載っていないが、この国では死刑は免れないだろう。殺人もそうだが、死体遺棄も罪は重い。それよりも柚月は、分解して隠した場所が気になった。記事には、警察犬を総動員させて探したと書いていある。廃校。近くの神社。警察犬が、畑の中から人の手を発見したこともあったようだ。犬の嗅覚は人よりも遥かに鋭い。死んだものは腐臭を出すから嗅ぎ取りやすい。


 チヨもそうだった。おやつを隠しても、すぐに見つけてもっと頂戴と尻尾を振っていた。


「もしかしたらそこに、何かしらの残骸があるかもしれないわね。あなた好みの写真も撮れるかもしれない」


 場所を確認する。渓谷沿いのローカル線を乗り継げばたどり着ける。この学校の最寄り駅から一時間半程度。学校からそれなりに距離のある柚月の家からは二時間以上かかるが、いけない場所ではない。山の中の廃校。絶妙な単語だ。


「雨宮は行く気ある?」

「そこにわたしの神がいるかもしれないもの」


 雨宮は静かに肯定した。


 プールサイドには花火の痕跡はない。明日も同じように練習する水泳部のために、全て片付けた。朝になれば、薄く漂う煙の匂いも消えているだろう。ざらついたプールサイドの床だけが残っているはずだった。だが。

 誰も気がつかなかったのだろう。よく見たら柚月の足元に、一本だけボールペンよりも細いものが落ちていた。拾い損ねた線香花火だ。


「やってみる?」


 柚月は一本だけ残った線香花火を雨宮に渡してみた。

 鞄の中からライターを取り出す。ライターは、花火を用意した北村が忘れていったものだ。雨宮を待っている間にプールサイドで見つけた。北村には次に会った時に渡すつもりだ。


 火をつけると、線香花火は先ほどと何も変わらずに赤く咲いた。ささやかな花に、ささやかな音。それでも色は、神社の鳥居のような鮮やかな赤だった。この赤は他の花火では出せない色だ。遊んだ手持ち花火も、空に咲いた打ち上げ花火もどこか白っぽい明るさがある。


「他の花火よりも楽でいいわね」


 雨宮が持っていると、線香花火は可憐なカスミソウには見えなかった。どちらかというと、あの世とこの世の対岸に咲く彼岸花に見えた。


 そうして火種がぽとりと落ちた。

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