第三話

 母と義父は親しくなったわたしと月読を見て、胸を撫で下ろしました。週に一度母と帰ってくると、四人で食事を囲みます。義父とは顔を合わせるとまだ少し緊張しますが、月読がいると思うだけで安心できるので不思議でした。


「この子は自慢の息子だから。仲良くしてくれて嬉しいよ」


 義父は優しい人でしたが、幼いわたしには知的に見えるぶん、冷たく感じられたのです。都会の大学で教鞭を取っているらしいのですが、彼の詳しい仕事についてはわかりません。

 わたしはいつも、義父も母もこの家に帰ってこず、ずっと月読と二人でいられればいいと思っていました。週に一度の家族の団欒の時間にも、ゆりかごに包まれている二人きりの日常を焦がれてしまうのです。


 四人で食べる時よりも、月読と二人で食べる時がわたしは圧倒的に好きでした。余計な照明、余計なお話、余計な音がありません。食事は彼が用意してくれました。手伝った方がいいとは重々承知しておりましたが、月読はわたしにさせようとは思っていなかったようです。サヨは待っているだけでいいよとやんわりと頭を撫でられました。


 月読は幼い頃に母を亡くしたそうです。少ししか覚えていないけれど、綺麗で優しい人だった、と言っていました。月読の母だから、それは大変美しかったのでしょう。それからは多忙な父と二人で暮らしていたのですから、料理も家事も自発的に覚えざるをえなかったのです。


 各々の部屋にいる時間よりも、居間のグランドピアノの横に二人でいる時間の方が長くなってきていました。食事が終わると、月読は本を読んだり、わたしに読み聞かせをしてくれたりしました。大人向けの民話に、音楽の話。一通り話終わったら、月読はピアノを弾き始めるのです。雨の日は雨の音に溶け込むようで、実際には独立した音を。凪いだ風が吹く日は穏やかなバッハを。桜が舞い散る夜は、箏のように華やぎのある曲を。月読の指にはあらゆる曲があり、鍵盤に落とすとぽろぽろと淀みなく流れてくるのです。


 月読は自らの変わった名前を、それなりに気に入っているようでした。


「神様の名前らしいんだ。ツクヨミノミコト。日本神話が好きな父がつけたんだ。神様の名前なんて俺には分不相応だけど、嫌いじゃないな」


 義父は苦手ですが、一点感謝するとすれば、彼に月読という名前を与えたことです。名は体を表すと言いましょう。神の名前にふさわしく、うつくしく、善良で優しい魂の持ち主だったからです。

 その日、月読が弾いていたのは、今まで聞いたことのない曲でした。


「この曲は?」


 ラヴェルだよ、と彼は教えてくれました。


「『亡き王女のためのパヴァーヌ』。美しいだろう?」


 どういうわけか、わたしは月読の言葉に同意をすることができませんでした。彼のいう通り、美しいのです。ですが、聞いているうちに胸が苦しくなるのです。


「綺麗なものって悲しいの?」


 亡き王女。この曲の王女さまは死んでしまっているのです。だからこんなに悲しくなるのでしょうか。生み出される音も、脆く、崩れやすい真珠のように聞こえてきます。


「サヨのいう通り。綺麗なものは悲しく感じる時があるね。だから抱きしめるように大事に弾くんだよ。失った後も、思い出が風化されないように。結晶化されて、永遠に残っていくように。そうだ。サヨにあげたいものがあるんだ」


 その時、月読はわたしに一つの箱を渡してきました。それはピアノの蓋に置かれていました。上品なシルクに包まれた、手のひらに収まる小さい箱です。白いリボンと布を解いて現れたものに、わたしは目を奪われました。

 きらきらひかる月のペンダント。何かの石でしょうか。透き通る透明さと光を合わせもっていました。繊細にカットされていて、手の中におくとその揺れ具合で光の色合いが変わります。ある部分は青みがかかった紫、ある部分は淡いオレンジ色。


「どうしたの? これ」


 わたしは月読の顔とペンダントを見比べながら、彼に尋ねました。


「プレゼントだよ。誕生日がわからなかったけど、見た瞬間にサヨに似合いそうだなと思って。家族になったから、その証として。嫌かな?」


 喉に何かがつまって、音が出てきませんでした。

 月読の指先が目元に触れてきます。彼の指の腹は、濡れていました。そこで初めて、わたしは自分が落涙していると気が付きました。この涙は言葉の代わりなのだと思いました。目元に触れていた指先が移動していきます。首を通り、頭を抱えられ、気がつけばわたしは、彼の胸に顔を埋めていました。背中に回された手のひらは温かく、わたしは、この中が一番安心する場所なのだと実感したのです。


 月読が語った、失った後も大事に、や、思い出が結晶化されて、とかは、あまりぴんときませんでしたが、わたしはわたしで、この時確かにこう思ったのです。

 ずっとずっと月読の隣にいたい。この人がいれば、わたしは何もいらない。わたしは泣きながら、彼にそう伝えました。

 わたしの言葉を聞いて、月読はわたしの瞼にキスをしてくれました。


「ずっと一緒にいるよ。サヨ。俺の誰よりも大事な王女さま」


 その日から、月読はわたしを一晩中抱きしめてくれるようになりました。大嫌いな雷の夜も、雪が降り頻る寒い夜も、ずっと一緒です。二人でひとつの布団にくるまって、お話をして、微睡んで、彼の腕の中で朝日を迎えるのです。


 あまく、密やかな夜の時間。

 何よりも幸せなひとときでした。

 

 

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