第三章 空中ブランコ

第一話


 蝉が命の限り鳴き声を上げている。八月半ば。盆が過ぎると、青天の中でも薄暗い影が落とされるようになった。


 渓谷沿いをゆっくり走るローカル線に揺られる。一両編成のワンマン列車の中で、柚月と雨宮は電車の長椅子の両端に座った。雨宮はいつもの黒づくめで、柚月はストレッチタイプのジーンズと半袖のシャツという格好だ。バックパックの中には、貴重品類に散策のために必要なものを入れている。麦茶を入れたステンレスボトル。虫除けスプレー。山の天気は変わりやすいから、長袖のパーカーと折り畳み傘も用意する。


 雨宮は眠っているのか、目を瞑って微動だにしない。柚月は無駄に話を掛けることもせずに、持参した文庫本を開いていた。時折、窓の外に流れる景色を見つめる。桜の季節や紅葉の季節なら、景観の美しさに見惚れるだろう。だが今は、生きることに忙しない緑がわさわさと生い茂っているだけだ。渓谷を流れる川は列車と並走するように下流へと流れている。窓からなんとなしに川の水面に目を向けると、底の岩まで見えるほど澄み切っていた。


 清涼な水音。木々が揺れる音はソプラノの重なり。昼間の音は忙しない。


 ローカル線が奥へと進むにつれて、山の緑が濃くなり始めた。一枚いちまいの葉の形がわかるほど、光と緑のコントラストが明確になる。酸素密度が濃厚になるから、光合成が忙しなく律動している結果だ。一番酸素を吸っていないのは、席の端に座る黒づくめの少女だろう。彼女の場合、積極的に酸素を取り入れるのを拒否しているようにも見える。


 柚月と雨宮は、夜の散歩をすることはあっても、昼間に行動を共にすることは滅多にない。これが初めての遠出だった。


 電車に揺られること二時間弱。目的地である廃校は、一時間に一本しか運行していないローカル線の終点の町に設置されていた。山の麓でも、街中と気温は大して変わらないようだ。遮るものがない分、日差しは余計にきつく感じられた。


 終点について改札を出る。駅員は一人しかいなかった。ここに来るまで停車した駅は無人駅も多かったから、まだいい方なのだろう。文明の利器をひとつだけ取り入れた結果、Suicaのパネルが設置されていた。改札出口の前には、「ガンダーラ」という名前の今にも崩れそうな珈琲屋が開いていた。ここは天竺ではないが、ローカル線の終着にある店の名前としてはふさわしいような気がした。


 Googleマップで、現在位置と目的地の廃校までの距離を確認する。


 雨宮と下見で麓の町を歩いているうちに、昼下がりになった。小腹も減ったところで、町中に開いていた蕎麦屋に入る。雨宮に飯は? と聞くと、彼女は主体性がないように頷いて、一緒に暖簾をくぐった。

 蕎麦屋は小綺麗なカフェみたいな内装の店だった。空調が良く効いていて、席に置かれた麦茶を一口飲むと汗が一気に引いた。炎天下の町中を歩いたから、雨宮の白い顔に赤みが差されている。


「もりそばひとつ。雨宮は?」

「……同じものを」


 割り箸を割って、運ばれてきたもりそばを啜る。蕎麦は柚月の好物だ。歯応えのある昔ながらの蕎麦。

 ザルの中身が半分ぐらい減ったところで、柚月は妙なことに気がついた。

 雨宮は眼前に蕎麦を置いたまま、箸すらつけていなかった。


「食わないの?」


 茹で上がった蕎麦は時間が経つと風味が落ちる。パサパサになって食べづらい。蕎麦の命が死ぬ前に、さっさと食べるべきなのだが。


「わたしは人と食べるのが苦手なの。いつも……あの方としか食べていなかったから」


 この女はいつも教室でどうしているのだろうか。


 雨宮とは、学校生活や課題の話をしたことがない。どの科目が得意で、苦手なのか。教室内での出来事。仲間内で、1年の頃に同じクラスだった友人はいなかった。人と食べるのが苦手だとしたら、騒がしい教室で食べるのはさぞかし苦痛だろう。しかし無視されているとか、一人でトイレの中で食べているとか、負の想像は似合わなそうだった。もしくは、何も気にしていないか。


 きっと何も気にしていないのだろうと勝手に決めつけて、食べるように促した。雨宮自身のためというより、蕎麦のために。


「なら、俺は壁だと思えばいい。そうすれば食えるだろ」


 改めて振り返ると、柚月は目の前の少女のことを、何も知らない。会話の端々から読み取れることで推し量れはする。探し求めている夜の神を心酔していること。どうも協調性もなくて、友人らしい友人がいないということ。


 ただ、その踏み込まない距離感が柚月は嫌いではなかった。長い付き合いで遠慮のない松崎も嫌いではないが、一緒に行動をしても無関心を貫いている雨宮は、余計な感情で煩わされることもなく無理をする必要がなくて気楽だった。


 柚月は無言でもりそばを啜る。山葵を麺につける。つゆの中に山葵を溶くのは、濁るから嫌なのだ。歯応えがあって、咀嚼すると、つんとした山葵と蕎麦の香りが鼻の奥まで広がった。啜るのに抵抗があるのか、雨宮は少しづつ、丁寧に食べた。


 蕎麦屋には柚月と雨宮のほかに客がいなかった。会計を済ませたあと、思い切って当時の事件を蕎麦屋の主人に聞いてみた。後学のために知っておきたいので、と前置きを言って。こうすれば、ただ物見遊佐だとは思われないはずだ。雨宮は横に突っ立ったまま無言だった。柚月の顔をじっと見つめている。


「当時は小さかったからなぁ。新聞で出ていた以上のことは……。ちょっと待って、思い出すから」


 蕎麦屋の主人は四十程度の痩身の男性だった。若気な風貌だが、作務衣姿がよく似合う。歳は尋ねなかったが、事件当時は十歳前後だったはずだ。当時もあそこは廃校だったのだから、蕎麦屋の主人は別の小学校に通っていただろう。


「パトカーとか、警察犬が吠える声とかは覚えている。その時は親父がこの店をやっていけど、うちにも警察が聞き込みに来たってぼやいていたな。親父は犯人と被害者とは面識がなかったみたいだけど。ああ、ちょっと待って。俺、学校から帰るときに、捜査中の警察官とすれ違ったんだけど、その二人が『いじめも娯楽だったのか』みたいに呟いていたのはよーく覚えている」


 電車に乗る前に、事件についての予習はしてきたつもりだった。現在この犯人は、死に至る刑の執行を待つ身になっている。三人死んだ、事件の舞台の学校。

 いじめも娯楽。嫌な言葉だ。死刑執行を動物園の見せ物のようにしていた中世の人たちじゃあるまいし。


 自分も似たようなものかと柚月は静かに自嘲した。


「……覚えているのはこのぐらい。あの事件のあと、立ち入る人もいないっぽい。そりゃそうだよね。大して役に立たなくてごめんね」

「いいえ。ありがとうございます」

「ところで横の子、君の彼女? やるなぁ。……ごめんごめん、変な邪推をしてしまったね」


 雨宮の顔を横目で確認する。彼女は柚月が今まで見た事がないほど、冷ややかな瞳で店主を睨んでいた。

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