第二話
市営の図書館には昔の新聞が保存されている。三十年前に起こった地方のばらばら事件についても詳しく記事に載っていた。事件について、それなりに予習をしてきたつもりだ。雨宮がどうかはわからないが。念のため、図書館でコピーした記事をバックパックに入れてきていた。
学校は山を背に建っていた。二階建ての木造の校舎で、校庭が狭い。ブランコの鉄は錆びていて、シーソーのタイヤは潰れていた。ジャングルジムのペンキが剥がれている。全体的に傷んでいる。統廃合したのは事件よりも五年前の一九八五年。統廃合によって廃校になった小学校は、自治体によって有効活用されるパターンもあるが、この学校はそれに当てはまらなかったようだ。
入れそうな扉を探す。昇降口が二つあったが、二つとも鍵が掛かっていた。裏手に回ると、非常用口に隙間が空いていた。中は何がどうなっているかわからない。柚月はバックパックの中から虫除けスプレーを出して吹きかけた。虫が苦手なわけではないが、率先して寄って来て欲しくないものだ。そうすると、雨宮が怪訝な顔をした。
「それは何?」
「虫除けのスプレーだけど」
「……そんなものがあるのね」
柚月を山の麓の廃校に誘ったのは雨宮だ。薬局で売っている普通のもの。珍しくもなんともないのだが。
柚月は改めて、雨宮の格好を確認してみた。黒のワンピース。黒のタイツ。首に下がっているペンダントも欠かしていない。靴も学校指定のローファーだ。いつもの夜の散歩の格好。熱を吸収しやすく、蚊が好んで寄ってくる服装だ。布製の肩掛け鞄にも、スマートフォンなどの連絡手段を持っていないから、財布ぐらいしか入っていないかもしれない。
柚月は雨宮にスプレーを差し出した。
「貸す。虫だらけになりたいならつけなくていいけど」
「どうやって使うの?」
使い方を知らないのだろうか。こんなスプレーを知らなくても生きていけるとは思うが、それまでの人生で知る機会がなかったのだろうか。雨宮小夜子と虫除けスプレー。確かにこの二つは相入れない単語の気がした。
缶を振って、柚月は雨宮に振りかける。薬品入りの霧が噴射されて、雨宮は驚いて後ずさった。ミント系の清涼感のある匂いが漂う。
瞳は丸く見開いていた。
それを見て、柚月が少し意外さを感じた。今の雨宮は、夜に会う時みたいな異常さと紙一重な陶然とした美しさが抜け落ちて、幼い子どもみたいな無防備さを晒している。
「これで寄ってくる虫は減るかな。効かないようだったらまたかければいいから」
「……感謝するわ」
蕎麦屋では「この女は学校でどうしているのだろうか」と、しみじみと疑問に思ったものだ。
今では柚月の中で、「この女は一体どうやって生活しているのだろうか」に変わった。
一歩踏みしめる度に、ぎしぎしと床が悲鳴を上げる。かと思ったら、正体不明の虫が廊下を這う気配が伝わってくる。埃とカビと、建物から醸し出される薄い腐臭。想像以上に不健康かつ不衛生な場所に成り果てている。蕎麦屋の主人も言っていた。事件が収束した後、きっと誰も立ち入っていない。こういう不衛生な場所は年頃の女性が嫌悪しそうなものだが、雨宮は平然と柚月の隣を歩いていた。
柚月は生首を飾る人の気持ちを考える。――昔見た、おもちゃ箱の中のもののように。あれはきっと綺麗に飾ろうと思っていてやった行為。教室にある赤い丸は、見せしめのような意味があるのだろうか。どちらも洒落にはならない。人の命が奪われているのだから。理屈では分かっている。
それでも惹かれてやまない。
今度は、あるいは美しく装飾され、あるいは残忍にさらされた生首の気持ちを考える。静かな寝顔のような首。もう一つは……。
雨宮が赤い丸の横に屈んだ。手のひらで、何かを拾うような仕草をして立ち上がる。両手で愛おしそうに抱えている。
彼女の手のひらに、今、生首がある。空想の首をもつ彼女は、ヨカナーンの首を求めるサロメみたいだった。少し陶酔した瞳になっている。被害者の首ではなく、別の誰かの首を抱えている。それこそサロメに近かった。
「あるかしら」
「……ありそうだね」
彼女のこういうところは、柚月は嫌いではない。雨宮は赤い丸に首を戻す。
「ここにあった首は、同級生の男性だった」
口に出したのは、イメージをより鮮明にさせるためだ。どうやって首を真っ二つにしたのかはわからない。三十年前の記事では「鋭い刃物のようなもので」とあった。包丁だろうか。それとも、斧だろうか。ピアノ線、という説もあるだろうか。
シャッターを切る。赤い丸の上に、目を見開いて、胴体と永遠の別れを告げた現実を受け入れていない生首が置いてある気がした。
教室を出て二階に上がる。一階には一年生から三年生までの低学年の教室。二階には四年生から六年生までの教室。その他、一階には職員室や用務員の当直室、二階には理科室と図書室がある。階段は建物の中心にひとつしかない。廊下よりも、一層怪しい音を立てた。穴でも開くのではないか。
廊下や階段にも、点々と血が残っている。血痕を持った凶器を持ち歩いた証拠だろうか。階段を上り切って、理科室に向かおうとした。右の突き当たりに理科室が、左の突き当たりが図書室だ。図書室には本を抱える手があったのだ。そこで、後ろを歩く気配が消えていると気がつく。
踊り場で、立ち止まった雨宮が窓の外を見つめていた。ガラス窓には埃がついていて少し曇っている。混じり気がないのは、雨宮の黒目がちな瞳の方だ。
薄暗い廃校の中で佇む雨宮を見る。改めて、客観的にも綺麗だと認識する。精巧に作られたフランス人形か剥製か何かかだろうか。
カメラを構える。思わず、シャッターを押してしまった。
光が放たれる。
「……今、何を撮ったの?」
「君だけど。不意打ちで悪かった。すぐに消す」
「構わないわ。その一枚を頂ければいいから」
いまだに、この少女が同じ高校の中にいるとは信じ難い。どちらかというと、この廃校の方が似合っている。有象無象の魚と一緒の水槽で元気よく泳ぎ回るよりも、壊れそうにほど脆い水槽の中でゆったりと微睡んでいる。
柚月は桐央高校の教室で、静かに座っている雨宮の姿を想像してみる。クラスが違うので見たことはないが、柚月の目にはあまり魅力的には映らないだろう。撮りたいとは思わない。ここは朽ちかけている廃墟だ。死に近い空間だから、雨宮の静謐さが妙に似合う。
そうだ、目の前の少女は死に近いのだと改めて実感した。
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