第三話

 家の近くのコンビニを通り、ドラッグストアが併設された大型スーパーを横切る。巨大な建物が沈黙する様は、少し不気味に映った。一歩一歩地を噛み締めるように歩く。風が、昨日よりもわずかに生暖かかった。確かに夏へと近づいている。昨日は咲いていなかった、隣の家の桔梗が咲いていた。変わらずに毎日訪れる夜も、微妙な変化を見せてくる。信号と信号の間が、やけに遠く感じた。昼と比べて車通りが少なくなるからだ。今はしんと静まりかえっているが、1ヶ月後にはカエルの鳴き声が響くようになるだろう。雨に濡れたアスファルトは、日に当たっていた昼よりもよりも柔らかくなる。雨上がりの夜道もまた、嫌いなものではなかった。


 犬がいなければ、と柚月は考える。犬がいなければ、散歩するのに一番適した時間帯は夜だ。それも、〇時を過ぎた深夜。人気も車通りも少なくなり、空気が清涼に浄化されていく時間。ここは昼間とは別の世界であると空間が訴えてくる。健全とは言い難く、危険も伴うとわかっているが、それでもやめられない。


 月光が強烈に存在を主張する。夜に歩く人は、きっとこの光に取り憑かれているのだと思う。別世界に誘う朧げな光。


 自分もその一人か、と柚月は静かに自嘲する。



『月の光は狂気の一歩手前の世界なのよ。あなたがその曲を弾きたがるのは、「月」が名前に入っているからかしら。でも、あなたに相応しいのはこれじゃない。こっちね』



 恩師の言葉が蘇る。その時恩師は、柚月が持っていた楽譜ではなく、別のものを渡してきた。頭に恩師が持ってきた曲が再生されそうになって、頭を軽く振るう。大事なのは、かつての自分が鍵盤を用いて出した音ではなく、歩いている今の音である。


 頭の中で散歩コースを思い描く。中学の学区外に出て、依田川の傍を歩いていく。依田川は、依田山を起点に流れ、そのうちにそれなりに大きい岩魚川に合流する。依田川の中流のあたりは、山下南公園という小さい公園があったはずだ。ベンチと、ブランコと滑り台とシーソーがあるだけの、レトロな丸い円。公園に着いたら写真を撮る。部長の岩永曰く、「何かが起こりそうな」空間の数々を。



 そのつもりだった。



 月下で気が向くまま足を動かした先。


 その中心に、大の字に横たわる少女がいた。


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