第二話

 生ぬるい風と共に、犬の鳴き声が夜空を駆け抜ける。


 この日の夜は晴天で、星々がやけに明るく地を照らしていた。何もなくても、指先の指紋までよく見える。街頭すらいらないと思うほどだった。幼い頃から歩いた道で、たとえ今、唐突に星がなくなって全くの暗闇になってしまっても、唐突に目が見えなくなったとしても、電柱はどこにあって、あと何歩進めば目的の交差点にたどり着くか、わかる自信が柚月にはあった。足の裏から伝わる微弱な感触や靴音が、どこを歩いているかを教えてくれる。それぞれの道によって、アスファルトや土の質は違う。


 辺りの家は既に暗く静まり返っていた。どの家も住人が休みについた後のようだ。犬の遠吠えは柚月にとって心地よいものだが、殆どの人間にとっては安眠を妨害するものだろう。……遠吠えで、犬同士はどんな会話を行うのだろうか。


 犬は大好きだ。愛犬のチヨを思い出す。しっぽをばたばたさせながら懐に飛びついたときや、次の日の予習をやっている時に「遊んでよ」とねだってくるのが、犬らしくて好きだった。チヨはもういないけれど、チヨがいなくなったことと犬が嫌いになることは符号で結べない。


 チヨに想いを馳せながら、柚月は手に持ったメモを確認する。肩にかけたボディーバックの中に入っているのは、財布とiPhoneと、デジタルカメラ。iPhoneのカメラ機能があまり優秀ではないと知ったのは写真を始めてからだ。


『深夜0時。三好町、鹿の交差点』


 読みやすく無駄のない文字だった。

 国道である鹿の交差点は二車線あり、横断歩道を渡って向こう側に行くまで距離がある。柚月のいる歩道の反対側の歩道に、メモを渡した人物がいる。透けるほど白い肌に、すらっと長い手足。卵型の輪郭と、柔らかい鼻梁。顔が異常なほど整っている。腰まで長い淡いミルクティー色の髪を持つ、同い年の少女。

 雨宮だ。彼女は何も持たずに信号機の下に佇んでいる。黒のワンピースに、黒いタイツ。少しずつ夏に近づいているのに、二週間前に初めて話した時と変わらない格好だ。

 信号機が青くなる。

 旅の道連れの少女が柚月の姿を確認する。彼女はにこりとも笑わなかった。


 *


 雨宮と知り合った日を、遠野柚月はよく覚えている。まず、その日の昼休みに、柚月は1組の雨宮が気になっていると、友人の松崎啓太に持ちかけられたのだ。持参した弁当も食べ終わって、忘れていた漢文の宿題を片付けている時だ。隣の隣のクラスに、雨宮小夜子という名前の、とんでもない美人がいる、といきなり言い出した。


「へえ、どんな感じ?」


 柚月は漢文のノートから目を離さずに、松崎に尋ねた。漢文を書き下し文に変換するのはリズムが大切だ。点の位置を確認し、一文字に宿った意味を読み取って文章を構成させていく。トン、トン、トン、とテンポよく。


「めっちゃ可愛い! で、美人なんだよ! ていうか、可愛いと綺麗の中間って感じ? つまり、超理想の美少女って感じ? 俺の理想って感じ? 何で俺、今まで気が付かなかったのかって殴りたい! ほら、見てみろって!」


 松崎は、柚月の中学からの友人だ。調子の良さが先立って生まれたような、明朗な男である。彼が惚れやすく、異性の顔面に厳しいことを柚月はよく知っている。松崎はアイドル雑誌を片手に、この子は目がいまいちだとか、この子は実際に見た方が可愛いだとか、休み時間の度にそんな話をしている。よくそんなに尽きないものだと変に感心しながら、柚月は右耳から左耳へと聞き流していた。


 鬱陶しさを感じつつ、柚月は松崎が眼前に突き出したスマートフォンを見やった。スマートフォンの画面に映っていたのは教室の風景で、微妙に画像がぼやけている。かの少女とやらを発見して、松崎が廊下から盗撮したのだと分かった。休み時間の一コマ。生徒が思い思いに談笑したり、予習をしたりしている――誰を撮りたかったのか、見ただけでは分からない一枚だ。この子だよ、と言って松崎が差した顔はカメラから遠すぎて、その人物の髪の色が淡いミルクティー色だとしかわからなかった。


「これじゃわからない。もう少し近いやつはないか」

「ない。隠し撮りだもん!」

「隠し撮りだと堂々と言うもんじゃない」

「じゃあ今から見に行こう! 昼休みもうちょい時間はあるから!」

「……なんで俺も行くことが前提なんだ。一人で行ってこい」

「柚月も男だろうが! 興味あるだろ?」


 うんざりと柚月は松崎を見返した。柚月にとって、隣の隣のクラスの女子がいかに美人かより、終わっていない漢文の課題の方が大事だった。五時間目が漢文の授業で、担当の教員は課題をやってきているかどうかを必ず確認する。授業は眠くて単調な割に、課題には厳しいのだ。勉強が苦手な松崎は、柚月の課題を写してもらうことがしょっちゅうだった。


「……漢文の課題は出来ているのか」


 柚月の冷静な疑問に、松崎は瞬きを繰り返した。


「やっべ、忘れてた」


 見せてくれ、と言う間をもたせずに松崎をじろりと睨む。たまには自力でやってほしい、との意思を込めて。

 最後の一文の書き下し文が終わったところで、授業が始まる鐘がなった。慌てて松崎が席に着く。やべー、どうすっかな、適当にごまかすか。そんな呟きが後ろから聞こえてくる。漢文教師が教室に入ってきて、眠くて単調な授業が始まった。松崎は適当にごまかせずに真っ白なままノートを見せて、教師から冷ややかな罵倒を喰らっていた。


 放課後に写真部の部室に行くと、部長の岩永が現像した写真を吟味していた。神経質そうな優等生、といった風貌の三年生だ。あまり気に入ったものがないらしく、銀フレームの眼鏡のブリッジ部分を抑えて唸っていた。テーブルの上には、猫の写真がずらずらと並んでいる。柚月の顔を確認して、岩永は顔を少し和らげた。


「遠野、久しぶりだな」

「納得したものが撮れた時だけ来ることにしているので」


 部長が苦笑いを返した。


「じゃあ今日は、いいものが撮れたから来たんだよな?」


 柚月は学生鞄の中から、昨日現像した写真を出した。

 静けさに包まれた深夜の工場。赤だけが浮かび上がった鳥居。黄昏色をバックに立ち並ぶ電柱。車が一台も通らない深夜の国道。雨に濡れた紫陽花と、それを見つめる狐様。あの世とこの世の間のような黒の世界。


「悪くないんだけど、基本的にお前、夜の写真しか撮らないよな。もっと爽やかなものは撮らないのか」

「部長だって、撮りたいものしか撮らないでしょう」

「いや、それはそうなんだけど。お前の写真、見てると何か起こりそうなんだよな。犯罪の一歩手前とか、猟奇的っつうか、そんな写真が多い」

「そんなことないですよ」


 猫の写真しか撮らない割に、岩永は写真に関する勘が鋭い。柚月は内心舌を巻いた。まともに答えると、言わなくてもいい自分の趣味まで話してしまいそうだった。自分以外のことに話題を向けた。


「部長こそ、たまには猫の写真ではなくて犬の写真でも撮ったらどうですか」

「……前向きに検討してみる」


 岩永の言葉と被るように、窓の外からカーンと高い音がした。校庭が俄かに騒がしくなる。もっと走れという怒声も聞こえてくる。野球部が練習している音だ。今は初夏で、七月の県大会に向けて、練習を重ねているのだろう。かつては甲子園の常連高だったらしいが、出場しなくなって久しい。今年こそはと燃えているのかもしれない。

 柚月と岩永の間で、嫌な沈黙が落ちる。


「なあ遠野、今年の夏は」

「行きません」


 柚月はにこやかに断った。何回も打診されていたから、部長が言いたいことはわかっていた。野球部の県大会について行って、試合の写真を撮ってこいと言うのだ。新聞部が写真部に毎年依頼していることだ。校内新聞に載せるためだ。

 しかし、勝てば勝つほど帯同する回数は増える上、炎天下のアルプススタンドに試合が終わるまで座っていなくてはならない。野球に興味のない柚月にとって、なるべくなら御免被りたいイベントだ。

 柚月の答えを聞いて、岩永はがっくりと肩を落とした。




 部活を終えて柚月が帰宅すると、母の美津子が台所で夕飯の支度をしていた。


「おかえり」


 ただいま、と適当に返す。尖った醤油の匂い、大根と生姜。綺麗好きの専業主婦の美津子の趣味の一つは、料理だ。


「今日は手羽先?」

 弁当箱を洗いながら母に尋ねてみる。

「そう。それから大根葉のきんぴらと、なめこと三つ葉の味噌汁ね」


 居間を通り過ぎて自室に向かう。居間のアップライトピアノの鍵盤蓋は、父のシャツやら柚月のデジタルカメラなどの荷物置き場と化している。天板に置かれた写真立ての中では、チヨが舌を出している。おやつをねだる時の天真爛漫な笑顔だ。


 父の帰りは遅いらしい。七時のNHKのニュースを流しながら、母と食卓を囲む。ニュースの内容にいちいち反応していた美津子が、別の話題を口にする。


「柚月。あんた最近、ピアノは弾かないの?」

「何、いきなり。結構前に辞めたのに」


 手羽先は大根と一緒に生姜で甘辛く煮てあった。大根葉のきんぴらは、ちりめんじゃこがいい仕事をしている。美津子はなめこと三つ葉の味噌汁を箸でかき回しながら、話を続けた。


「今度、調律さんくるから。しばらく弾いてなくても、音は濁るでしょ? なんか勿体無いなと思っちゃって」

「母さんだって弾けるだろ」

「私は良いのよ」


 柚月が物心ついた時から、今は物置のアップライトピアノが居間の壁に添うように鎮座していた。息子が弾くかもしれない、という憶測もあったかもしれないが、母もそれなりに弾けるのだと柚月は知っている。幼かった頃のチヨと、幼い時分の柚月は、美津子のピアノをゆりかごにしながら育ったのだ。モーツアルトのソナタを聞きながら、一人と一匹は寄り添うように眠っていた。

 柚月は母が一番納得しそうな答えを投げた。


「最近は写真にはまっているんだ。部活だって写真部だし」


 ピアノの鍵盤蓋に置かれたカメラは、大学生の従兄から譲ってもらったものだ。彼は最新式のデジタルカメラを買ったので、これはもう使わないといってぽいっと柚月に渡したのだ。従兄は新しいもの好きで、カメラだけではなくパソコンやスマートフォンでも、最新のモデルがでるとすぐに切り替えるような人だ。悪くいえば飽きっぽい。よく言えば流行に敏感な性質をしていた。


 柚月は従兄とは違う。iPhoneは高校の入学祝に母に買ってもらったものをずっと使っている。辞書やその他の身の回りのものも同様だ。だから新しいカメラがでても、ピアノの蓋の上のものをずっと使うのだろう。


「ごちそうさま」


 あまり触れられたくない話題だった。食べ終わったら食器を下げて早々に部屋に退散する。観念したように美津子が目を伏せた。何か言いたげな、柚月が少し苦手な母の顔だった。




 そして深夜〇時になる。




 柚月は布団から出て、寝巻きからジーンズとロングのTシャツに着替える。両親が眠り、家中の全ての電気が消えていることを確認して、一歩外に出る。

 夜の空気を思い切り吸い込んだ。今日は満月だった。



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