第一章 月下

第一話

 柚月の家は、昔、犬を飼っていた。


 室内で飼う小型のビーグルで、名前はチヨ。性別はメス。茶色の耳と、端っこだけ白いしっぽが特徴で、首を横に傾けた仕草が異様にかわいらしい犬だった。散歩は朝夕の二回。朝は母が、夕方は柚月が行っていた。


 母は朝の散歩を簡単に済ませていた。十分歩けばいい方で、五分の時もある。下手すると、家から五メートルも離れていない豆腐屋で帰ってくるときもあったようだ。そうするとチヨは歩き足りない。学校から帰ってきた柚月の姿を見ると、チヨは口にリードを銜えて、しっぽを降りながら駆け寄ってきた。


 母は、チヨの爪でフローリングの床に傷が付くのを嫌がっていた。母はチヨが嫌いなわけではないが、綺麗好きの母には母の言い分や事情があった。チヨも犬なりに母の感情を嗅ぎとっていたらしく、室内ではなるべく走らないように、爪を立てないようにおとなしく歩いていた。爪切りが嫌いな犬もいるらしいが、チヨはそれに当てはまらなかった。


 家でおとなしい反動が柚月との散歩で表れた。チヨは、ある時は走り回り、ある時はスキップでもするかのように飛び跳ねる。母のお陰で、必然的に柚月とチヨの散歩時間は長くなった。一歩外にでるとチヨはうれしそうに柚月を引っ張っていく。


 チヨの散歩は確かに時間がかかるものだが、しかしその時間が、柚月は嫌いではなく、寧ろ大好きだった。


 散歩をすると様々なものが見えてくる。昨日は咲いていなかったスミレが、道ばたで咲いていたり。古風な一戸建ての家から、獅子通しの音が聞こえ、その中から味噌味のインスタントラーメンのにおいが漂ってきたり。アスファルトの微妙な温度が、昨日と今日で違って感じたり。日が落ちる瞬間、生まれでる星の白さに驚いたり。


 風に擦れた木々の音を一音一音確かめたり。


 通りすがった子供が歌う歌が、「かごめかごめ」だったり。


 三丁目の交差点の曲がり角をスニーカーで踏むとラの音が出てきたり。


 日々のチヨとの中で、音の色彩を見つけることを、柚月は密かな楽しみにしていた。


 唯一困るのは、ピアノを練習する時間が減ることだった。


 当時の柚月は週一回ピアノ教室に通っていて、一日最低でも三十分の練習を日課としていた。最初はハノン。指が温まってきたら毎週教室から出される練習曲を。練習曲に飽きてきたら、既に自分のものになっている曲をおさらいする。弾ける曲が増えていくのが、純粋に楽しかった。バイエルからブルグミュラー、ブルグミュラーからソナチネまでの過程も。


 柚月が練習していると、チヨがとことこと足下にやってくる。犬は音楽が好きだという説を柚月は聞いたことがあるが、チヨを見るとその説は間違ってはいないのだと思えた。特にショパンの『子犬のワルツ』がお気に入りで、それを柚月が弾き始めると、チヨは二回しっぽを揺らして、ペダルを踏んでいない柚月の左足に鼻先をこすり付けにきた。子犬はワルツを踊るのではなく、ワルツに喜んで耳を傾けた。


 チヨとピアノ。

 柚月にとってはどちらも大切で、欠けてはならないものだった。


 柚月がまるでおもちゃ箱のおもちゃのような死体を発見したのも、チヨとの散歩のさなかだった。

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