第七話
柚月は、老爺にデジタルカメラに保存されている写真を見せた。全て、今日撮ったものだ。惨劇の後の廃校。忘れ去られた理科室。廃校の裏の、物言わぬ狛犬。黙って、岩永曰く「猟奇殺人事件一歩手前」の写真を眺める。目を細めて、微笑ましそうに。
「……その時の犯人は捕まったのですか」
「わかりません。その後の新聞は読んでいないので」
確認して現実を見るのが怖い、と言った方が正しい。あれは現実離れしていたから。一種の芸術になっていたから、その後の現実は預かり知りたくはなかった。これからも知らなくていいと思っている。
写真を覚えたのは高校に入ってからだ。その頃、従兄からいらなくなったデジタルカメラを譲り受けた。散歩の時に一枚撮ってみると、少しだけあの時の異常さに近づけた気がした。写真にのめり込むまで時間は掛からなかった。
店内の曲を意識する。ポランスキーの名作映画『戦場のピアニスト』で扱われた遺作の『ノクターン』だった。かつて弾いた曲。今でも、指は覚えているだろうか。
弾けるかもしれない。しかし、思い描いた理想の音は出ない。
ピアノの音が外界の雨と交じり合っていく。あれを飾った犯人は、今は獄中にいるのかもしれないし、まだ往来を闊歩しているのかもしれない。柚月は、どこかで後者を望んでいる自分も感じていた。もしくは、どこかで似たようなものが見られるような。また異常なものを見たい。そういう空間を切り取りたい。そうすれば。
またあの時のような完璧な音を出せる気がした。
雨宮は夜の神を探す。柚月は再びあの音を出すための装置を探している。歪なのは自覚しているが、求めてやまない。もう二度と会うことがないのに。出会わない方がいいと分かっているのに。
空になったコーヒーカップの底に、茶色い輪っかが出来上がっていた。
「少し私の話をしましょうか」
夜が更けて、雨の気配がいっそう濃くなった。柚月はカウンターを挟んだ向こう側にいる老爺の顔をじっと見つめる。穏やかに凪いだ顔だった。
「壁に貼ってある写真でお気づきかもしれませんが、私は長らく山登りを趣味としていましてね。この店を持っておりますが、私は今でも登り切った山の頂で嗜むコーヒーに勝るものはないと思っていますよ」
柚月は後ろを振り返って、山岳写真を見つめた。厳寒の雪山。険しい岩山。緩やかかかつ、標高の高そうな稜線。
「初めて山に登った時ですね。厳寒の冬でしたか。自分でもどうしてあんな真冬に登り始めてしまったものか今でも疑問なんですよ。初めてだったのに。おかしいでしょう。一歩間違えれば死にますよ。雪が綺麗でしたが、それよりも美しかったのが、山頂で見た空の青さでしたね」
想像してみる。厳寒の冬。防寒具を通り過ぎるように冷気が体に刺さる。寒さは体の自由を奪う。筋肉が強張り、足がまともに動かない。それでも山頂を目指してひたすら登る。いただきにたどり着くと見える、空の広さを思い浮かべようとする。
無理だった。突き抜けるような青天は、簡単に想像できる色ではないのだろう。
「初めて天に手が届くと思いましたよ。あの色がもう一度見たくて、わたしは山に登りました。でも一度たりとも、同じ色には出会えませんでしたね。それでも求めて止まなかったものです。人に言ったことなんてありませんよ。あなたは自分の手の中を教えてくれたので、特別に教えました。そして、あなた以外の人に、これからもわたしは言わないでしょう。自分の内だけで知っていれば良いものです。だって勿体無いでしょう。自分の宝を、簡単に他人に教えるなんて」
柚月は目を見開いた。後頭部を殴られたような衝撃を覚えた。老爺は、柚月が発見した異常な死体を宝と評した。勿体ない。そんな考え方もあったのか。共感が得られないから。理解されない、できないだろうと思って誰にも話さなかった。
だが老爺は違った。
大事なものは、自分の中だけで取っておいてもいいのだと。
「周囲から見れば、あなた方の旅は意味がないのかもしれません。それでもあなたたちは続けるんでしょう」
老爺は幾つだろうか。還暦はとうに越したと推測できるが、古希には手が届いていないかもしれない。五十近く離れた老爺に柚月が抱いたのは、何故だか親近感だった。ありえない幻想的なものを追っていたのは、自分だけではなかった。自分が夜を歩いたように、この老爺も山を登り続けたのだ。
「あなたの旅が豊かなことを祈ります。豊かではない旅なんて価値がありませんからね」
「……それはそうですね。また、こちらに寄ってもいいですか」
ただ親近感を抱いたから。それだけではない。カレーの味は普遍的だったが、コーヒーを飲んで口に広がったのは音だった。ヴァイオリンが伸びるような音。喉の奥にしまうと、脳に響いた音が透き通りながら消えていく。コーヒーの味を今まで気にしたことがなかったが、初めて美味しいと感じた。もう一度味わいたくて訪れる人もいそうな味だった。
もちろんですと老爺は答えた。
「旅の進捗でも聞かせてくださいよ。案外、見つけるのよりも、もう満足したかなと思った時が旅の終わりかもしれませんよ」
あなたはそうだったのですかと尋ねるのは野暮だった。コーヒーをもう一杯飲みますかと老爺が尋ねてくる。時計を確認すると九時だった。随分長く話していたのだと驚いた。脹脛が重い。睡眠を意識するような時間には早いが、一日中歩き回って流石に疲れていた。もう一杯飲んでも、カフェインに邪魔されずに眠りの底につける自信があった。
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