第六話



 二年前の初秋の夕方だった。十月の頭ぐらいだったと記憶している。当時柚月は中学三年生で、年明けには受験、十一月に中学最後のピアノの発表会を控えていた。先生が「これを弾け」と言って練習してきたものも、自分の血肉になってきた時だった。


 学校から帰ってきた柚月は日課のチヨの散歩に出かけた。オレンジ色の夕日が群青のビロードに覆い尽くされそうになり、その中間のグラデーションが綺麗だったのをよく覚えている。しばらく譜面を眺める方が多かったから、少し長めの散歩にすると決めていた。


 散歩コースはいくつか決めている。いつも同じだと単調で、チヨも柚月も飽きるからだ。家の周りをぐるっと回るだけの最短コース。中学の周りまでぐるっと回るそれなりに長いコース。河原まで歩くのは休日で、たまには通った幼稚園の隣の寺まで足を運ぶ。


 その日に回ったのは、平日歩くには一番長い、工場を回るコースだった。ぐるっと回れば4キロ近くある。

 今は廃工場で、昔は自動車整備工場だったところだ。工場の周りを歩くだけの予定だった。巨大な建物が夕日に照らされているのを見て、何か嫌な予感を覚えたのだ。その予感を振り払うように、小走りで歩こうとした。

 チヨが、耳をピンと立てて鼻を豊かに動かしながら、廃工場の方を見つめていた。柚月も立ち止まって、工場の方面を見やる。


 初秋の風に紛れて。


 ……かすかに。

 廃工場からかすかに、ピアノの音が聞こえてきた。



 リードを引いて、柚月は廃工場に向かってみる。忍び込むのは簡単だった。使われなくなった機材。あかりの切れた蛍光灯が散らばっている。車を作るのに必要なネジ。工具も所々に散乱していた。音の鳴る方向へとチヨと向かう。


 やがてがらんと開けた空間に出てきた。



 空間の中心にあったもの。年代がわからない、壊れたラジカセが一生懸命音を紡いでいる。

 宝探しの先に待ち構えているような、豪奢なおもちゃ箱と、王族が座るような絢爛な椅子が。

 美しい女性の死体を飾っていた。



 柔らかい色の裸電球。さまざまな宝飾品。


 椅子に座るのは、女性の首から下だ。黒をベースにした、レースのついたシックな服を着せられて、マネキンのように綺麗に座っている。しかし、よく見たら腕がなかった。詳しく言えば、肘から下が欠けている。


 両腕は天井から吊るされていた。ライトアップされた電球や、クリスマスツリーで飾るようなオーナメントと一緒にゆらゆらと揺れている。


 壊れたラジカセが曲をつなごうと必死になっている。ノイズが入ったり、ぶつっと途切れながら、何とか一つの曲を紡いでいく。この曲は知っている。ゆったりとした旋律が綺麗な曲。この間弾こうと思って結局弾かなかったもの。柔らかな光が降り注ぐ、穏やかで優しくて――好きな曲。


 月の光だ。


 それを見つめたまま、柚月は体が動かなくなった。ぐらぐらと不安定に揺れるそれに目が奪われる。あらゆる感覚機能がそれ以外のものを受け付けなくなった。ラジカセの音は骨に響き、チヨの鳴き声は水の中で聞いているかのようにぼんやりとしていた。発見したこれをどうしたらいいのかわからない。ここから離れて、発見者として警察に通報するのが適当だろう。人がひとり命を落としているのだし、亡骸を見世物の飾るような異常者がいるのだから、早く捕まえてしかるべきだ。


 だが。


 この犯人はどうして死体を美しく飾ろうと思ったのだろうか。


 おもちゃ箱の中には人の首から上がある。まだ20代ぐらいの、美しい女性の顔だった。黒檀の髪に、真っ白な雪の肌。青い薔薇のごとき唇。犯人は彼女が眠っている時に殺害したのかもしれない。瞼を閉じて、まるで自分が殺されたのを知らないかのように静かな顔をしている。


 ぼやけた犬の声が急になくなった。ジーンズの裾をチヨがかんだ。生暖かい犬の息が右の足首を包み込む。踝に触れたチヨの鼻はとても温かかった。犬の鼻は濡れているから、本当は冷たい筈なのに。チヨは歯の力でぐいぐいと引っ張って訴えてくる。帰ろう。帰ろう。ここは怖いところだから。


 ――魂が失われた器はとても美しい。いびつな空間は完璧に計算されて作られている。


 チヨの主張も忘れて、柚月の魂はその空間に飛んだ。月が涙を落としたかのような、ドビュッシーの「月の光」。不安定に揺れる両腕が、薄暗い灯りの中、空中ブランコで遊んでいるように見えた。


 極上に趣味の良いサーカスのような。

 前衛的な芸術品のような。

 夜の帷が落ちてくる。

 あたりが完全に闇に包まれるまで、柚月はその場に立ち尽くしていた。



 その二日後、地元の新聞の一面を飾ったのは廃工場の死体――柚月が見つけたおもちゃ箱のオブジェについてだった。


 身元は誰か。その死体がいかに凄惨だったか。その場の空間がいかに異常だったかを伝えた。父母はその現場が家から歩いてほど遠くないところにあるのに驚き、憤りを感じた。中学に行くとやはりその話題で持ちきりだった。面白がって話すクラスメイトもいれば、本気で怯える下級生もいた。数日間、授業は午前中までになった。教師は集団で下校するように、夜は不用意に出歩かないようにと注意を促した。当時からつるんでいた松崎は、授業が減ってラッキーと不謹慎に笑っていた。


 第一発見者は柚月ではなく、廃工場から半径百メートルと離れていない場所に暮らす主婦になっていた。その主婦が見つけたきっかけを作ったのも、柚月と同じように彼女の飼い犬だった。犬が家から脱走して、探していたら飼い犬の鳴き声が廃工場から届いた。声を頼りに踏み入れて――あれを発見したのだ。


 主婦はそれを見た途端、その場の異常さに襲われて嘔吐した。そして、すぐに警察に通報した。

 あれを見たことを、柚月は誰にも話していない。チヨが悲しげに伏せをしたところで正気に戻り、そこから大人しく帰った。帰りが遅かったことを母に心配された。道に迷ったと適当に流し、その日は夕飯を食べずに眠った。


 主婦があれを見つけたのは、柚月が見つけた翌日だった。


 チヨはそれ以来、今までの散歩好きが嘘みたいに外に出たがらなくなった。柚月がリードを見せると、犬小屋に潜って出てこなくなり、家で大人しく過ごすようになった。母はチヨの大人しい様子にすっかり機嫌がよくなった。むやみやたらと走り回ったりしなくなって偉いわねと急にかわいがり始めた。


 あの時の異常さは確かにわかる。しかし、異常、なのだろうか。あの美しさは。あの空間の完璧さは。人の死すらも、あれはあの作品のために必要なものだったと言わしめるほどのものは。


 家でも学校でも、少しぼうっとあの時のことを考える時間が増えた。鍵盤に向かった時と、音のことを考える時だけ正気を保てるような気がした。練習時間は必然的に増えて、弾きすぎて鍵盤の音が狂った。曲が曲だったので、激しく叩けば叩くほど音は狂っていった。調律する時間が惜しかったが、狂った音で練習したくはなかった。調律師を呼んで、再び練習で激しい音をならす。


 そんな音を聞かせるたびに、チヨはどんどん元気がなくなっていった。

 一ヶ月、一人と一匹はそんな調子が続いた。




 そしてピアノの発表会の三日前の朝。

 チヨは冷たくなっていた。



 チヨは柚月が赤子の時に家にやってきた犬だった。ブリーダーから買って、本物の兄妹のように一緒に過ごした。亡くなった時チヨは15歳だった。もう少し長生きできたかもしれないけれど、死んでも納得のいく年齢だった。


 一日でペット火葬に連れていき、骨だけになったチヨを持ち帰る。学校は、体調不良と嘘をついて休んだ。暫くしたら庭に埋めるつもりだった。あれだけ一緒にいたチヨなのに、一滴も涙が出てこなかった。白状な人間なのではないかと柚月は自分を疑った。


 骨を持ち帰った後は、惚けたようにベランダに座って空を眺めた。茜色の空。少しずつ白けた星が静かに現れて、藍色が濃くなる。大事な犬が死んでも、規則正しく一日は流れていく。そこで思い出した。


 今日はまだ一回も鍵盤に触れていなかったと。


 これは惰性ではないと言い聞かせながら、鍵盤に右手の人差し指を置く。日課なのだと。トライアングルを打つように。オーケストラの音合わせのように、音を確かめてから弾き始めるのが、柚月の癖だった。



 トーン、と指を落とす。トーン、トーンと。

 三回落として、耳を疑った。


 なんだ。


 もう一度、一音一音、自分の指から出される音を確かめる。トーン、トーン。

 今までこんな音を、出そうと思っても出せなかった。今度は指全体を使って、ドレミファソラシドと動かす。


 なんだこれは。


 いつも、邪魔だなと思っていた雑味がない。ペダルを踏みかえたときの変な粘り、指の力が足りない時のぼやけた表情が見当たらない。どこまでも研ぎ澄まされて、丸い粒になっている。


 ひかりが流れるように。

 歪に美しい、不安定な揺れさえも、星の粒になって落ちていく。

 この音が少し恐ろしい。あの空間みたいな音ではないか。

 それでも確かめなくてはならない。このまま弾き続けたら、この曲はどうなるか。


 椅子を弾いて弾き始める。一楽章と三楽章。つまり、三日後に弾くすべてを。弾きながら考えて、疑う。自分の指が信じられなかった。信じられないけれど。

 この音を出せる自分が素直に嬉しかったのだ。



 三日後。


 今までで最高の音を出せた。教師が手放しで褒めるのなんて初めてだった。聞きにきた父親が「お前はこんなにうまかったか?」と聞いてきた。冷やかしでやってきた松崎が、馬鹿の一つ覚えのようにすげーすげーと言いまくった。


 ひかりが流れるように。星の粒が落ちてくるように。濁りもなく清冽に。

 すべての音が調整され、自律され。かつ、色彩豊かな物語になっていた。


 その後、冬に受験を迎え……受験が終わった後、高校生になったら戻ってくるかと教師に問われたが、柚月は頷けなかった。


 あの時のあの演奏は、チヨの命と引き換えのような気もしたし、あれを見た代償のような気もした。翌日に自宅のピアノを開けたら、聞き慣れた自分の、味気ない音に戻っていた。


 どちらにせよ今の自分に、再びあの音を出すことはできない。普通に練習をしていても、普段の自分の音が味気なく感じられてしまう。

 そんな確信があった。


 それでも求めてやまない自分は強欲だとも思う。


 夜の散歩を始めたのは、「死体が飾れるような場所を探す」ようになったのは、それからだ。


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