第五話


 たった少しの距離なのに、雨水が容赦なくスニーカーに雨水が浸食してきた。柚月は動けなくなった雨宮を担いで、「ガンダーラ」の扉を開いてみた。


 崩れそうな外見とは裏腹に、「ガンダーラ」の内装はシックで落ち着いていた。木彫のテーブルが四つに、カウンターに椅子が五席と席数は少ないが、テーブルに付属された椅子は全て横に長いソファだ。クラシック音楽が流れているが、今の柚月に曲名を気にしている余裕はなかった。


 カウンターの中にいる店主は、細目で髪が薄い、中肉中背の老人だった。還暦も越しているだろう。背筋が伸びて小綺麗だが、紳士というよりも老爺という単語が似合いそうな風貌をしている。中国の奥地に潜んでいる仙人みたいな。老爺は急に入ってきたずぶ濡れの柚月と雨宮を見ても、動揺せずにいらっしゃいと静かに言っただけだった。


「すみません。こいつが動けなくなってしまったので、少し休ませていただいてもいいですか?」

「構いませんよ。よくあることなので。これは熱があるみたいですね」


 よくあるのか、こんなことが。老爺のカサついた手が雨宮の額に触れる。老爺と二人がかりで、雨宮を長椅子に横にさせた。座り心地が良さそうだ、と柚月がなんとなく思った時だ。


 建物全体が、揺れるかと思った。

 それほどまで大きい雷が落ちた。


 雨宮の唇から、ひっと短く悲鳴が上がった。頭を抱えて、体を丸くさせた。がたがたと激しく体を震わせる。


「怖い……。嫌……」

「雷が恐ろしいですか。大丈夫ですよ。ここに、あなたを傷つける人はいませんから」


 老爺が雨宮の頭を撫でた。赤子をあやすような優しい手つきだった。


「ほら、大丈夫、大丈夫。あなたも何かしてあげなさいな」

「俺ですか?」

「他に誰がおりますか」


 惨劇の跡地を平然と歩いていた雨宮が、架空の生首を抱いていた雨宮が、雷ひとつで怯えている。……今日は一体、どういう日だ。自分自身や彼女との旅のことではない。彼女自身だ。これが今まで一緒に歩いた雨宮だったのだろうか。今日一日で、彼女の知らない部分がぼろぼろと出てきた。歳のわりに世間知らずなところがあって、脱水のリスクを知らなくて、雷に怯えて耳を塞ぎ、体を丸めて震えている。


 普通の女の子みたいに。

 普通の少女なのか。こいつは。好きな相手がいたら恋慕い、雷に怯えて、体調が悪くなったら動けなくなる。

 雷はまだ鳴っている。雨宮の目尻から、ぽろっと光が落ちた。


「大丈夫。ほら。俺がいるから」


 柚月は雨宮の手を取った。がらにもない行動だ、と柚月は自覚する。生首の気持ちを考えた時のように、泣きながら震える彼女が一番望んでいることを想像する。思い当たるのは、一つだけだった。雨宮が好きだという「月の光」のフレーズを鼻で歌う。


「……そこにいるの? あなたが、そこにいるの?」

「ああ。だから、安心して眠りなさい」


 雨宮は瞼を硬く瞑ったまま開かない。頭痛がするのか、瞳を閉じていた方が楽なようだ。このまま開くなよ、と柚月は念じる。目を開いたら最後、幻滅して終わりだ。今は眠った方がいい。子守唄のように優しく口ずさみ、なんだったら頭を撫でる。さっきの老爺の手つきを見習って。傍らで老爺が何も言わずに見守っている。


 そうしているうちに、雨宮の呼吸が安定してくる。震えが収まり、雨宮の手から力が抜けた。柚月の横に控えていた老爺が、冷やしたタオルを雨宮の額に乗せた。彼女から手を離してみると、だらりと垂れ下がった。手首が信じられないぐらい細かった。

 柚月は長い息を吐いた。一つの仕事を終えた気分だった。


「あなたも災難でしたね。こんな豪雨で。とりあえず掛けて休みなさい。今、タオルと新聞紙を持ってきますから」

「新聞紙?」

「靴の中に入れて、水気を取るんですよ」


 老爺は店内から消えたと思うと、店の奥から言った通りのものと、毛布を持ってきた。新聞紙とタオルを柚月に渡し、毛布は雨宮の体に優しくかけた。薄いが、清潔そうな毛布だった。


 柚月はひとまず靴を脱いで、水気を取るために新聞紙を丸めて靴の中に入れた。靴下を剥ぎ取って裸足になると、一気に不快感が和らいだ。タオルで全身の水気を拭き取って、バックパックからパーカーを取り出して羽織った。カウンターに座ると、すかさず老爺が水を出してくれた。グラスの水を飲むと、ようやくひと心地がついた。首を回していると、店内に流れる音が脳のひだに染み込んでくる。曲を気にする余裕が出てきた。これは……。


「リストですか」


 正解ですとカウンターの中の老爺がつぶやいた。


「よくわかりましたね。これを当てた若い人は、あなた一人ですよ」

「まさか高校生のほとんどが、フランツ・リストの曲は『愛の夢』や『ラ・カンパネラ』しか知らないとでも言いますか?」

「それも知らない子だって珍しくないでしょう。……ああ、それでは曲名は何ですか?」

「二つの伝説の二曲め。正しくは『波の上を渡るパオラの聖フランチェスコ』」

「……驚きました」


 そういう割に顔は変わらない。本当に驚いているのだろうか。


 店内には山岳写真の他に、壁伝いの本棚にCDがずらりと並んでいる。どれもクラシックの名盤だった。柚月は席を立って、本棚の傍に佇んだ。バッハ。ベートーヴェン。サン=サーンス。ラローチャの弾くアルベニス。グールドの弾くモーツアルトの名盤。クラシックは老爺の趣味なのだろうか。山岳写真。珈琲。クラシック音楽。ばらばらの三つの要素が、老爺という人間の手によって渾然一体の空間を作り出している。


「何か気になるものがありましたら、かけましょうか?」

 どうやらパオラのフランチェスコを当てたのが、老爺は嬉しかったらしい。柚月はしばし、本棚を眺めながら考える。パオラのフランチェスコが波の上を渡りきるのを待った。


「……これで」


 辻井伸行のアルバムを老爺に渡した。かしこまりましたと言って、老爺がCDをセットした。曲が始まる。いいスピーカーだ。クリアに聞こえる。カウンターに肘をついて、極上のモーツアルトに耳を傾ける。


「電車、これから動きますかね」

「無理でしょうね。このまま運休になると思います。どなたか迎えは来れそうですか?」


 まじかよ、と内心毒付いた。

 母には、一応行き先を伝えてある。文化祭のために必要な写真を撮りに行くという名目で。あながち間違いでもない。文化祭で、写真部の展示のために必要なものも撮らなくてはならないのだ。事情を説明すれば車で来てくれるかもしれない。駅内で「圏外」になっていた電波が、今では復活していた。


 しかし迎えに来てもらうとなると、土砂降りの中の山道を、二時間以上運転することになる。母は運転が不得手ではないが、この山道は危険な気がした。


「一晩泊まっていきなさい」


 老爺は願ってもいない提案をした。

 柚月は顔を上げた。


「今日はもう店は閉めますので。その子も無理はできないでしょう。寝かせてあげなさい。こういうことはよくありますから」

「よくある?」


 老爺は静かに頷いた。よくある。老爺はさっきもそう言った。


「この付近は山に囲まれているので、ハイキングをする客が多いんですが、山の天気は変わりやすいでしょう。そして、あの電車は雪には強いんですが、雨には弱くて、ちょっとした雨でも運休になりますから。そうしたら電車で来る客を受け入れる先が必要なんですよ。この辺りに宿はありませんから。夏場は店で雑魚寝させるなんてしょっちゅうです」

「……見た目よりも頑丈なんですね」


 こんな崩れやすそうな店に入る客もいるのかと感心する。失礼を承知で言うと、老爺は静かに笑った。


 柚月は聖人ではないので、パオラのフランチェスコのように波の上を渡れない。方や老爺は、曲のタイトルにもなった聖人や天竺に向かった三蔵法師のように徳高い人間に見えた。柚月は彼の提案に甘えることにした。どうせ雨宮も動けない。

 店内の壁には、山岳写真が所々に貼られていた。若かりし頃の老爺らしき人間もいる。黒姫山に登頂から撮った写真、赤城山の長い裾、妙義の険しい岩肌を撮った写真などもある。


「何か食べますか」


 メニューにあるものならなんでもできますよと老爺が言った。確かに腹は減っている。昼に蕎麦屋でもりそばを食べてから、持参した麦茶しか口に入れていなかった。油を吸って少しべとついたメニュー表を見てみる。コーヒーの種類が妙に豊富だった。老爺がガンダーラに向かって珈琲豆を探索する旅に出た結果だろうか。それとも、珈琲屋ならこのぐらいの豊富さは当たり前なのか。


「……じゃあ、カレーとコーヒーで」


 食事が出てくるのを待っている間、柚月は母親に連絡を入れた。電車が運休している、大雨で山道も危険なので、一晩泊まってくると伝えると、母はどこに泊まるのかと聞いてきた。渓谷沿いのローカル列車の終点の、「ガンダーラ」という名前の店だと伝える。明日無事に帰ってきなさい、お礼を言うのを忘れずにと母に言われた。電話はそこで切れた。


 カレーは可もなく不可もない味で、普遍的な味が逆に安堵を覚えさせた。過剰な美味さがなくて、舌にすんなりと馴染む。食べ終わった後に出てきたコーヒーを一口入れる。

 柚月は僅かに目を見開いた。これは……。


「美味いでしょう。これはわたしの自慢のブレンドです」


 老爺が柚月の心を読んだように微笑んだ。一口ずつゆっくりと味わう。冷めると味が落ちるかもしれないが、一気に飲み干すには勿体なかった。老爺は黙って柚月を見守った。飲み終わったと同時ぐらいに、老爺は再び口を開く。その時に、老爺は寝ている雨宮に視線を向けていた。


「あのこ、随分きれいな子ですね。あなたの恋人ですか」


 蕎麦屋の主人と似たような邪推をされる。あの時は雨宮が刺しそうなほど蕎麦屋の店主を睨んでいたが、今の彼女には老爺の言葉は届いていない。柚月は静かに断言した。


「違いますよ。互いの旅の道連れのようなものです」

「旅」

「ええ」


 雨宮に恋愛感情を抱いたことはあるか、と尋ねられたら、即刻首を横に振る自信があった。雨宮は柚月の同級生で、旅の相互扶助の関係で、被写体としては魅力がある。それ以上でもそれ以下でもない。


「……あなたは一体、どんな旅をしているのですか」


 老爺は柚月と雨宮の関係を深く追及するよりも、柚月の旅の内容について聞いてきた。好奇心ではなく、会話の延長線上での発言だった。数ヶ月前に、雨宮に言った言葉をそのまま伝える。死体を綺麗に飾れる場所を探している。一枚の写真に収めたい。そのために、事件のあった廃校を訪れたのだと。


「……面白いですね。あなたはどうしてそう思ったんでしょう。何かきっかけでもあるんですか?」

「聞いたら多分、引きますよ」

「共感を得ようなんて、本当は思っていないでしょう。あなたは。人生に必要のない共感なんて、猫にでも食わせてしまえばいいのです。だから私も、こんな山奥でコーヒーを淹れて暮らしている」

「……猫だって、そんな共感は不味いと思うんじゃないですか?」


 それもそうですねと老爺は笑った。

 辻井伸行の曲集が終わった。老爺はCDを入れ替えた。今度は、アシュケナージの弾くショパンのノクターン集になった。


 腹も膨れた。外は豪雨で、やることもない。


 始まりにはきっかけがある。これほどになく明確な輪郭を持った理由が。両親にも、親友の松崎にも、そして旅の道連れである雨宮にも言ったことがなかった。老爺自慢のブレンドと、雨音と重なったピアノの音色が柚月の口を開く気にさせた。


 ノクターンは夜想曲。夜に属するという意味だ。雨の夜は長くなるだろう。語る内容ももしかしたらふさわしいのかもしれない。


 少し長い話ですがと前置きをして、柚月は蓋を開けた。

 その言葉を発するのは、告解にも似ていた。



「昔死体を発見したんです」


 それもとびきり異常で、美しいものだった。

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