第八話


 ピアノ教室のレッスンは、一回につき一人三十分だった。待合室はなく、ピアノがあり、先生がいるレッスン室内に二つの長机がある。三十分のレッスンの後、教本や楽典を希望する生徒が椅子に座って勉強する。


「柚月君は音を追うのが好きだね」


 小さい頃の記憶だ。ピアノを始めた頃、柚月は一つの曲を弾くのではなく、指先から生み出される一音を追いかけていた。音を連なりよりも、音の粒そのものが好きで好きでたまらなかった。


「じゃあこれは何の音?」


 先生が指を置いたのは、白鍵のラだった。

 水っぽい、と柚月は答えた。


「これが二重になると?」


 ドとミの和音を先生が作る。雨になりますと柚月が答える。


「じゃあこれは?」


 ドとミとソ。三和音を一気に先生は落とした。柚月はカエルの合唱、と答える。


「面白いね、柚月くん。音の表情がわかるんだ」


 わかる、というよりも、そう捉えられる、という方が正しかった。しかし、幼い柚月は先生にどう伝えたらいいかわからなかったのだ。曖昧に笑って誤魔化した。

 その時に、誰かがレッスン室に入ってきた。柚月の次のレッスンがその人だった。先生がその人に、こんにちわと笑いかける。


「ねえ。○○君。柚月くんにちょっと聞かせてあげてよ」


 ――先生が言った○○君、は、一体誰だったのだろうか。君、と言っていたから、少年だったのだろう。その時の柚月よりも、結構年上だったようだ。その人の顔も姿も思い出せないけれど、音だけは明確に耳に残っている。


 ただの水でも、雨でも、カエルの合唱でもなかった。


 ひかりが流れるように。揺れるように。詩を読み上げるように清冽かと思えば、予想もつかない熱情が潜んでいる。だが全編にわたって共通するのは、月が泪をこぼしたような、美しい音だった。


 曲とはこういうものなのかと、柚月が初めて感じた瞬間だった。



 *



 柚月はゆっくりと瞼を開いた。


 随分懐かしい夢だった。恩田先生が夢に出てくるなんて。老爺に話す際、ピアノの話にも触れたからだろうか。


 恩田先生は、柚月の通っていたピアノ教室の教師だ。「恩田ピアノ教室」は柚月の家から、自転車で五分の一軒家で開業していた個人の教室で、それなりに人気だったようだ。小中学校の学区内にはいくつかピアノ教室が存在したが、クラスメイトや同じ学校の生徒が何人もこの教室に通っていた。


 恩田先生の信条の一つは「プロに負けない素人の育成」だった。一人一人に合わせた指導法はしていたが、発表会になると手を抜かずに曲と向かい合わせる。かといって、無理矢理嫌がる生徒に信条を押し付けたりはしなかった。


「去る者は追わず。好きなものはとことん付き合う」


 プロになる気はないが、音楽が好きな人はたくさんいる。やめていく人間は引き止めない。豊かな音は人を豊かにさせるもので、やめた後もけして無駄にはならない。血となり肉となって、その人の中で生き続ける。


「楽しみながら、自分の音を見つけるの。その人にしか書けない物語、その人にしか描けない絵のように。音を楽しむって書いて音楽だから」


 恩田先生は常日頃、生徒にそう説いていた。


「本気で弾くのなら、曲に対する基礎知識を身につけなくてはならないわ。だからこれを読むといいわね」


 望んだ生徒にはアナリーゼをすることを推奨した。曲を分析し、理解する音楽特有の学問のことだ。一通り弾けるようになった柚月に、ピアノ教室の教師は曲に関する書籍をどっさりと渡した。

「暗譜して弾けるなんてただの通過点。音に色をつけて、自分なりの曲想を練らなくては、本当にその曲は自分のものにはならないからね」


 練習を始めたのは七月。発表会は十一月。一通り暗譜で弾けるようになったのは、夏休み明け。九月の初めの練習で渡された資料を、受験勉強の合間に少しずつ読み下していった。初めて会った雨宮が謳った詩も、リストの『二つの伝説』についても、恩田先生に渡された大量の資料の中に入っていたのだ。お陰で遠くにまで来てしまった。多少は音楽について詳しくなった自負がある。


 あれも一種の旅だったのだろう。曲を追求するための豊かな旅。曲想を練る、という行為もその時に知ったものだ。


 柚月はiPhoneを起動させた。充電は40パーセント。時間は深夜三時。眠る前とは打って変わって静謐が夜を支配していた。暴れる嵐の気配が消えている。電気もつけていないのに、やけに明るく感じる。薄暗く手元が見える。


 新聞紙は優秀だった。完璧とは言わないが、靴の中はだいぶ水気が取れていた。靴を履いて、長椅子で眠っている雨宮を起こさないように、柚月は扉を開いた。夕方よりも、だいぶ顔が落ち着いていた。ギィっと軋む音。開いただけで、建物全体が歪むような。アスファルトは濡れていて、あちこちにぼやけた光が浮いた水溜りを作っている。


 深い藍色を塗りたくったような空。雲は一つも見当たらない。ぱらぱらと光の屑が撒き散らされている。そこに、ペダルを踏んでにじませた音のような、あいまいな月光が浮いている。輪郭は朧げで、だからこそ優しく地下を照らす。


 こうして月光を眺めて、頭に流れるのは、弾こうとしていた好きな曲ではなく、みっちりと向き合い、弾きあげた曲だった。


「この曲も『月光』なのよ。あなたはこっちの方が似合う」


 弾かなくなって久しい曲を頭の中で再生させながら、月下の道を歩いていく。気になるところが一箇所あったのだ。


 廃校になった学校を通り過ぎる。建物として朽ちるのを待っているからか、本当に人のいない学校は、廃工場に似ていた。


 目的は学校ではない。裏手にある、神社だ。


 境内に向かう長い階段。その周りには鬱蒼とした木々が囲っている。鎮守の森。先ほどカメラに収めた狛犬。廃校を出た後ここにもきたが、次があるから少しだけしかいられなかった。ここも事件の現場だった。境内に向かう途中、木々に紛れるように四本の手足がぶら下がっていた場所。


 枝葉が柔らかく揺れて、花が咲くように。

 白い手足が空中ブランコのようにゆらゆらと揺れる様を想像する。


 赤い鳥居に月がかかる。夜が更ければ沈んでいく。この月も、鳥居の中に入るのだろうか。日の出や日の入りが鳥居にかかる時、一枚に収めにやってくる人は数多いる。


 ……ここではそういう人はいないのだろうか。

 境内に至るまでの階段を見る。


 ありのままのひかりを撮るのは難しい。それが微粒子のようなものならば余計に。


 シャッターを切る。


 赤い鳥居に触れる満月。その奥には神の社がある。鎮守の森の枝葉が、あいまいな光を受ける。鳥居に触れた部分だけ、月はぽったりとした、水気の多い光を垂らしているように見えた。


 月が泪を流したような一枚になった。多分、昔の夢を見たからだ。


 懐かしい夢だった。


 初めて「曲」というものを教えてくれたあの人は、一体誰だったのだろうか。



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