第三話

 柚月が二つ分の鞄を持って保健室に入ると、その場にいるべき教師の姿はなかった。がらんとした中、保健室特有の薄い薬品のにおいがゆらゆらと揺れていた。三つのベッドのうち、二つは無人だった。


 カーテンで仕切っただけの個室の中で、雨宮は静かに眠っていた。ブレザーは脱がされて、眠ったベッドの上に畳まれている。河口の話では、わざわざ保健室まで付き添うような友人はいない。このブレザーも、保健医が整えたのだ。

 同じ学校にいるが、何度かすれ違った雨宮の制服姿に慣れない。シャツの隙間から、細い鎖骨がのぞいている。胸元がきらりとひかる。……肌身離さずつけているであろう、月のペンダントが存在を強調していた。


 静かに眠る剥製の少女。


 喉元がわずかに上下していなければ、剥製だと勘違いする人がいるかもしれない。……これが剥製ならば、と柚月は考える。これが剥製ならば、自分みたいにカメラに収めたいと思う人がいるだろう。カメラを持っていないのが残念だった。


 薬品のにおい。保健室の白いベッド。白地の薄いカーテンが、ほんのりと夕日色に染まっている。

 保健医の椅子を勝手に拝借して、雨宮が眠るベッドの横に設置する。椅子に座って、雨宮の鞄をベッドの脇に、自分の鞄を膝の上に置く。

 寝顔を見ながら、柚月は先ほどの河口の話を思い出していた。


 *


「軽音部の先輩の話って知ってる?」


 クラス中にコーヒーの匂いが充満している。坂下が松崎を呼んでいる。松崎くんならもうサッカー部の方に行ったよとクラスメイトの女子が答えた。教室の中は平和だ。柚月と河口の間だけ、ぴりぴりとした緊張感が生まれている。


「……雨宮に手酷く振られたって話なら、さっき友人から聞いた。それで関わりを持たないなんて、子どもかよ」


 こういう噂はむしろ、楽しんで聞くのが思春期の少年少女なのではないか。

 河口はかぶりを振った。そして、柚月が全く想像していなかったことを口にした。


「違う。それ逆なんだよ。雨宮の方から迫ったって話。先輩の方も気はあったみたいだけど、あれだけ美人だし。狭いところで二人きりになって、そういう雰囲気になったらしいんだ」

「雨宮が迫った?」


 思わず眉を顰めた。

 柚月の知っている「雨宮小夜子」像と真逆だ。虫除けスプレーも知らなかった無垢な子供の瞳を思い出す。「夜の神」以外興味がなさそうな。そんな彼女が「男を誘っている」のはにわかに信じがたい。


「音楽準備室で先輩もその気になって、始めようとしたところで、あなたは違うって言って拒んだんだよ。確かそんな話。あいつメンヘラのビッチだなってうちのクラスの女子連中、みんな嫌ってる。君のクラスじゃ話題になってないの?」


 少なくとも柚月は聞いたことがなかった。去年彼女と同じクラスだった女子なら知っているかもしれないが、聞く気はなかった。学校でその気になる軽音部の先輩もどうかと思うのだが、という突っ込みを心の中でだけ呟いた。

 先輩の方から誘ったのは、まだわかる。雨宮の方から迫ったというのが、何度反芻しても柚月には信じがたい。


 夜の神と間違えたか? 情報が少なすぎて、整理ができない。河口にもう少し尋ねてみる。


「軽音部の先輩って、どんな顔?」

「美形だね。線細くて、俳優かよってぐらい異常に綺麗だったね。あの女面食いかよって、女子連中が悪口言ってたの知ってる」

「もう一個いい? 雨宮が誰かと間違えたとか、そんなことはないか?」

「そんなの俺が知るわけねえだろ。本人に直接聞けよ。カレカノなんだろ。……俺は教えたから、あとよろしくな」


 柚月に鞄を押し付けて河口は足早に去っていった。カレカノじゃない、という暇も与えずに。

 もう何も聞くなと、背中が語っていた。


 *


 剥製に魂が宿るのか。それとも眠り姫が長い眠りから目覚めるのか。緩慢な動きで雨宮の瞼が開く。瞳に映る柚月の姿は、水で滲んだような輪郭になっているのかも知れない。


「起きたか」

「……わたし、一体どうしていたの」

「授業中にぶっ倒れたって話だった。音楽の時間に」


 雨宮の瞳は、柚月から天井を向いた。


「ああ、そう。そうだったわ……。あんな演奏を聴いてしまったから……。気持ちが悪くなってしまったのね」

「あなたが鞄を持ってきてくれたの?」

「そうじゃなきゃ、ここにはいないだろ」


 再び剥製のような姿に戻る。薬品の匂いと、汚れていない白いシーツ。河口から聞いた生々しい噂よりも、こちらの方が似合う。噂の是非を聞くには、今の雨宮は酷だろう。

 なぜ倒れたのか、倒れた彼女をどうしたのか。河口は教えてくれなかった。わかったのは、誰も助けようとしなかったことだ。クラスメイトは鞄すら届けるのを拒否したのだ。音楽教師が彼女を運んでいったのだろう。


「さっき、授業でひどい音を聞いてしまったの。録音のものだったのだけど、とてもひどい『月の光』。あの曲はあんな騒がしい曲じゃないの。もっと、ゆりかごのように綺麗に弾くべきなのよ」

「……そんなにひどい音だったのか」


 いい演奏を聴いて、感動から失神した、という話は幾度か聞いたことがある。だが、酷い演奏を聞いたときの反応でそれはあまり聞かない。聞くに耐えないものだったら、眠りに陥ることすら邪魔をするものではなかろうか。あくまで自分の基準で柚月は考える。自分だったら、まずは顔をゆがめるだろう。そして、耳をふさぐか、怒りを覚えるか、目を閉じて聞こえないふりをするか。いずれかの反応をする。


 失神する、というのは余程のことだ。他人にとっては笑い話で住むことだろうが、彼女にとっては傷口に塩を塗るような出来事だったのだ。


「あの方の音が聞きたい。……近くにいるのに、どうしてきてくれないのかしら」


 そう言って、雨宮は再び瞳を閉じた。剥製のような寝顔に戻る。眠れる森で目覚めを待つ人形のようにも見えて、魂が抜け落ちた亡骸のようにも見えて。


 そんなとても美しいものになっていた。


 ……寝顔を見つめながら、彼女に対する問いが喉元に鎮座しているのを柚月は自覚していた。


 君のいう「夜の神」は、音無月読か?

 その人は俺の先輩だったかもしれない。

 軽音部の先輩に迫ったという噂がある。

 もしかしたら、君がその先輩を「夜の神」と間違えたんじゃないのか?

 あらゆる言葉が喉元を漂い――その全てを腹の中に収めた。


 雨宮とは相互協力の関係だ。可能性があるのなら、本当は教えるべきなのだ。口を開きかけて、再び飲み込む。眠っている彼女なら聞こえないだろうと思っていても、声にするのも憚られた。柚月は今までの夜の散歩を思い出す。合わせることもなく、近寄ることもせずに、一定のペースで淡々と歩く雨宮小夜子との時間は……。


 自分にとって、心地の良いものだった。


 だからもう少し、このままでもいいかと思ってしまった。



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