第二話

 旧音無邸のグランドピアノの蓋は妙に重かった。トーンと音合わせに指を落としてみると、驚いたことに正常な音が出てきた。音は何にも邪魔されずに振動した。ドからドまでの音階を出してみる。久方に現れたであろう白黒の鍵盤は、再び弾き手がやってくるのを待ち望んでいたようだった。


 廃病院のピアノもそうなればいいと思う。このピアノのように。

 グランドピアノでピアノを弾くのは、最後の、ピアノ教室で発表会以来だ。あの時はベーゼンドルファーで、廃病院のピアノはヤマハで、これはカワイのピアノだ。ベーゼンドルファーのピアノを持っている会場は珍しく、そのピアノで弾けることを、柚月の通っていたピアノ教室の恩田先生はこだわっていた。……今思えば、先生はよりいい音で、生徒に弾かせたかったのだ。


 黒いピアノ椅子に腰をかけ、高さを確認する。これでは高すぎるので、少し調整をした。柚月は鍵盤と肘の位置が同じ高さになる方が弾きやすいからだ。椅子が高いと、余計な力が入って鍵盤を押し付けるように弾いてしまう。


 椅子に座り、肩を回し、首を回して、最後に手を振って力を抜く。


 楽譜はない。指が覚えていることを祈る。柚月は目を瞑って、曲の流れ、構成、運指を思い浮かべる。

 弾き手は一人。そして、聞き手も一人。見守っているのは、広い窓から侵入してくる月光だけだった。

 誰かのために弾くのは初めてだった。

 鍵盤に指を落とす。




 四拍子。分散した三連符。ゆったりとした一定のリズムで並行に弾く。速くなりすぎないように、遅くならないように。一楽章には、フォルテッシモという過剰な記号がない。強さが同じ粒になるように、曲の詩情を指で詠みあげる。


 感情を込めるのと詩情を歌い上げるのは違う。音に感情を込めるのは弾き手の主観。音の詩情は作曲家の意思を掬い上げる作業。感情を込めすぎると、曲は破綻する。ドラマティックではない曲の場合、感情と詩情のバランスを整えないと、聞き手にちぐはぐな印象を与えてしまう。


 分散和音の中に込められているのは……。作曲家よりのちの世の人は「水辺の小舟のような」と表現していた。その小舟も、月光が浮かぶ湖に揺蕩っているのだろうか。


 夜の神を求めて彷徨う雨宮小夜子ように。



 一楽章を終わらせて、柚月は雨宮の方を向いてみた。何も変わらない。ただうっとりと耳を傾けている。手の疲れも……今は大丈夫だ。

 ここからが勝負だ。大きく息を吸って最初の音に備える。



 急速に上昇するアルペジオ。


 あくまでピアニシモを意識したつもりだったが、だいぶ強い音になってしまった。雷が落ちるような。気にする事なく進める。始まってしまったものは止められない。たまに激しさだけではなく、満天の空から星が落ちてくるような、思いがけない流麗さがある。一小節ごとの左手の音の動きは単調だが、速い。この土台が重要で、崩れたら一気に曲は破綻してしまう。

 鍵盤の、左から右までを目一杯使う。


 雨宮の好きなクロード・ドビュッシーの「月の光」と、柚月が弾き始めたこの曲。

 のちの人が与えた名前は同じなのに。


 作曲家の違いか、音に対する思想の違いか。曲調も与える印象もまるで違う。三楽章にだけ別のタイトルをつけていいと言われたら、柚月は間違いなく「流星」とつけるだろう。

 あの人が弾いた三楽章は、文字どおりひかりが流れるようだったから。



 指を動かしながら、柚月は今自らが弾いている曲名に思いを馳せる。


 これも同じ月光よ、と恩田先生が言った曲。

 最初に曲を教えてくれたあの人と同じように、柚月も発表会で一楽章と三楽章を弾いた。


 ――ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲。ピアノソナタ第十四番。嬰ハ短調。幻想風ソナタ。ベートーヴェンが三十歳の1801年に作曲された曲だ。耳の異常が作曲家を襲ったのも、この頃だ。

 耳の異常を強く感じ取るようになったベートーヴェンは、その不安に打ち勝つように、第十四番のピアノソナタをダイナミックな曲調に仕上げた。

 のちの詩人、スイスのレルシュタープが付けたこの曲の愛称は――


 ムーンライト・ソナタ。




 ……曲は三楽章の後半部分に差し掛かってきた。背中や額に、冷たい汗が流れ落ちる。拭っている余白はない。


 一旦弾き始めた曲は、終わるまで止めることができない。

 きつい。指が回らない。手首が痛い。音が、同じ粒にならない。さっき左の人差し指がいい加減に鍵盤に触れた。理想とは程遠い。転び落ちる。滑り落ちる。速いと言うよりも、上滑りな動き。上部だけしか触っていないような浅い音。運指がもたつく。フラットが多い。不意打ちのようなダブルフラットに苛立ちを覚える。トリルが濁っている。左手の動きは単純なはずなのに、重い自分の指がもどかしい。フォルテッシモでは激しく鳴るように強く弾かれ、ピアニッシモは過剰に音が小さくなる。瞬間的に転調して戻るのが厄介だ。ペダルの踏み替えを失敗して、音に嫌なねばつきが生じた。


 それでも柚月は、どうにかして曲にしがみつく。振り落とされないように。流れるように。


 ひかりが流れるように。


 これではない、と思った。理想と現実は違う。こう弾きたいと思っていても、自分の指や音を完璧にコントロールするのは難しい。鍵盤の重みに、手首は鈍重な痛みを孕んでしまう。音で色彩が描けない。これでは光が流れるのではなく、雷や隕石が地面を落ちてくるようだ。落ちた音は、地面を抉る。


 それでも音を出すのが、指を動かすのが、楽しくて楽しくてやめられない。自らが発する未熟な音に湧き上がるのは、抑えがたい高揚感。



 この音ではないと思いながら弾くのが楽しくて。

 一瞬出せた理想の音に、例えようのない喜びを感じる。



 ――音を楽しむって書いて音楽よ。



 かつての師の言葉は正しい。幻滅する必要なんかなかった。幻想を求める必要もなかった。理想を手にした後、再び音を楽しめば良かったのだ。


 小さい頃の自分は、純粋に音だけを追いかけていた。


 全くその通りだ。


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