手合わせすることになった伊織と九郎は鍛練に使っている湯屋の裏庭に出た。そこは客がくることはなく、木々の枝がまるで屋根のように張り出してすっぽり覆ってしまっているので湯屋から裏庭が見えることもなかった。

「なんだか増えているような気がするんですが」

動きやすいジャージに着替えてきた伊織が見学者たちを見て困った顔をする。そこには菖蒲と佳純だけでなく、10人ほどの人だかりができていた。

「湯屋を開ける準備はすんでおりますわ。多少見学者がいたほうがやりがいもありますでしょう?」

おそらく菖蒲が皆に声をかけたのだろう。悪戯っぽい笑みを浮かべて言う菖蒲に伊織は「そうですね…」と力なく笑った。

「主殿、準備はいいか?」

先に準備を終えていた九郎が声をかける。九郎の手には錫杖が握られていた。

「はい。お願いします」

うなずいた伊織の手に妖刀鬼一が握られている。九郎は伊織が構えたのを見ると、地を蹴って一気に間合いを詰めた。

「くっ!」

振り下ろされた錫杖を伊織が刀で受ける。まだ本調子ではないからと多少力を抜いていた九郎は鍔迫り合いの中で伊織の力が格段に増していることに気づいた。見た目はなんら変わらず細身の青年なのに、どこにそんな力があるのかというほど伊織の腕力は強くなっていた。人間より遥かに力が強いはずの天狗である九郎が競り負ける。伊織に錫杖を弾かれた九郎は楽しげな笑みを浮かべた。

「はは!本調子でないとは謙遜だな!以前より格段に強くなっている!」

「それは父の力のおかげですね。でも、本調子でないのは本当ですよ?」

伊織がにこりと笑って地を蹴る。その早さは天狗である九郎をも凌ぎ、九郎の脇腹に峰打ちを打ち込んだ。

「っ!」

咄嗟に体と刀の間に錫杖を入れて直撃は避けたが、それでも九郎は飛ばされた。そのまま大木にぶつかる瞬間、九郎が身を翻して大木の幹を蹴る。飛ばされた反動も利用して加速した九郎は錫杖で伊織を弾き飛ばした。

 伊織もすぐさま体勢を整えて反撃に出る。互いに目にも止まらぬ早さで打ち合っていたが、先に限界を迎えたのはまだ体力が回復しきっていない伊織だった。

「勝負あったな」

一瞬足元がふらついた隙を逃さず九郎が伊織の首に錫杖をピタリと当てる。伊織は肩で息をしながら体の力を抜いてその場に座り込んだ。

「まいりました。やはりまだ体力がありませんね」

「足りないのは体力だけだろう。もっとかかっていたら俺のほうが負けていた」

九郎も荒い呼吸をしながらドカッと座り込む。ふたりは菖蒲が差し出してくれたタオルで汗を拭いた。

「おふたりともお見事でしたわ」

「相変わらず早すぎて見えなかったです」

称賛する菖蒲の隣で佳純が苦笑しながら言う。見学していた他の人間たちもほとんど見えなかったようだった。

「伊織、無理をすると紅に部屋に閉じ込められるぞ」

「すみません。つい楽しくて」

玉城の言葉に伊織は苦笑して肩をすくめた。本当はここまでやるつもりはなかったのだが、久しぶりの手合わせが楽しくてつい本気になってしまった。以前なら伊織が本気を出したら勝てるものはいなかったが、今九郎に負けてしまった。自分の中で新たに発現した鬼の力と陰陽師の力を使いこなせていないことが嫌というほどわかった。そして、何より長く戦うための体力が戻っていない。当分は体力作りをすると行った伊織に玉城は「ほどほどにな」と笑った。


 その夜、空いた時間に伊織は湯屋の地下にある書庫を訪れた。この書庫は大昔、伊織の先祖が陰陽師として帝に仕えていた頃からの書物が大切に保管されていた。

「何かお探しですか?」

書庫に入るとひとりでに灯りがつく。そしてどこからか十二単を着た手のひらに乗るほど小さな女がふわりと飛んできた。

「乙葉。久しぶりだね。陰陽師の力や術について知りたいのだけれど」

「かしこまりました。少々お待ちください」

乙葉と呼ばれた小さな女は伊織に一礼するとふわりと姿を消した。

 乙葉はこの書庫を管理し守るための式神だった。元はこの湯屋を開いた初代が作った式神だったが、湯屋の主が変わるたびに契約をしなおして湯屋の主を主としてきた。膨大な量の書物がある書庫で探し物をするときにはいなくてはならない存在だった。

「これらにお探しの内容が書いてあるかと思います」

少しして乙葉が戻ってくる。その背後には古い巻物や書物がいくつか浮いていた。

「ありがとう。上に持っていってもいいかな?」

「書物はかまいせんが、巻物は痛んでしまいますから持ち出し厳禁です」

乙葉の言葉にうなずいて伊織は書物だけを手に取った。

「じゃあこれは借りていくよ。巻物はあとで時間があるときに見にくるから」

「かしこまりました」

あとでくると言う伊織に乙葉は心なしか嬉しそうな声で返事をして頭を下げた。


 書庫から持ってきた書物を部屋に置いた伊織は、父が眠る母の部屋に足を向けた。そっとドアを開けて中に入る。父徨葵は部屋の中央に敷かれた布団で眠っていた。あまりに静かで、呼吸をしているのかさえ疑わしいほど。伊織は近づいてそばに座るとそっと父の頬に触れた。

「お父さん、陰陽師の術の勉強をしようと思うんです。体力が思うように戻らなくて、今何かあると足手まといになるから。神さまたちが加護をくださって、せっかく陰陽師の力も使えるようになったんだから、使えるものは何でも使うことにしたんです。これもお父さんのおかげです」

静かに語りかけた伊織は父の手を握ると額に押し当てた。

「お父さん、早く目を覚ましてくださいね」

微かな声で囁かれた言葉は偽りのない本心だった。

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