その日は朝から弐号館、参号館が何やらバタバタしていた。壱号館では何事だろうの皆が話していたが、ミーティングでその理由が明らかになった。参号館に特別な客がくる。そのため各館の間の結界を強めたり、いつもより念入りに掃除をしたりしていたのだ。

「特別なお客さんってどんな神様ですか?」

尋ねたのは新入りの東吾だった。

「高天原にお帰りになる神様だそうよ。確か、隣町の御山の社の神様って聞いたわ」

「お帰りになる?」

神様と関わりなどなかった東吾が不思議そうに首をかしげる。壱号館の主任である佳純は、信仰が薄れて力が弱まった神様は高天原に帰るか消えるかしかないと説明した。

「隣町の御山…」

佳純はそう呟いたきり黙り込んだ東吾から翔に視線を移した。

「翔くんは今日は参号館のヘルプに入ってちょうだい」

「わかりました」

「あとはこっちはいつも通りだからよろしくお願いします」

佳純の言葉に他の従業員がうなずいてそれぞれ持ち場に散っていく。佳純も仕事に戻ろうとしたとき、東吾に袖を掴まれた。

「あの、俺、その社知ってます」

「え、そうなの?」

驚いた佳純が尋ねると、東吾は実家が近くで子どもの頃はよくお参りに行ったのだと言った。

「俺、しばらく行ってなくて、神様、ここにくるなら、お礼を言いたいことがあります」

「…ちょっと来て」

東吾の話を聞いた佳純は東吾を伊織の執務室に連れていった。ドアをノックして返事を聞いてから中に入る。中では伊織と玉城がそれぞれ机で仕事をしていた。

「佳純さん、東吾さん、どうしました?」

「お忙しい時間にすみません。実は、東吾くんが今日いらっしゃる御山の社の神様にお礼を言いたいそうで」

「お礼?」

首をかしげた伊織に東吾は先ほど佳純にした説明を繰り返した。

「いいんじゃないか?力が戻ることはないだろうが、人間に忘れられたと嘆きながらお帰りになるよりはマシだろう」

「そうですね。湯浴みの後、御膳を召し上がっているときに私もご挨拶に伺いますので、そのとき一緒に来て下さい」

玉城の言葉にうなずいて伊織が言うと、東吾は嬉しそうに「はい!」と返事をした。

 見えない東吾はヘルプとして参号館で働くことはできないので、時間になったら伊織が呼びにくることになった。

 壱号館の詰所に戻った佳純は早速業務内容を変更して各自に伝えた。

「じゃあ、東吾くんは途中まで仕事して、私が声かけたらお風呂で身を清めて新しい作務衣に着替えてね。神様の前に行くのに失礼があったらダメだから」

「わかりました。忙しいのに、我儘言ってすみません」

いつもの半分も仕事ができないことに気づいて東吾が申し訳なさそうに頭を下げる。佳純はにこりと笑って首を振った。

「私たちの仕事はお客様に気持ちよく過ごしていただくことよ。特に今回の神様は私たちが生きてる間にはもうこの地においでにならないと思う。だから、少しでもできることするのも私たちの仕事よ。今回はたまたま東吾くんが知っている神様だったけど、これが別の人でも同じことをしたし、同じようにしてきたわ。だから気にしないで」

「はい。ありがとうございます」

佳純の言葉に東吾は真剣な表情をしてうなずいた。神様と人間の時間は違いすぎる。今を逃せばもう神様はいなくなる。あの小さな社に行っても神様はいないのだと思うと悲しいような、寂しいような、悔しいような、自分でもよくわからない感情が渦巻いた。


 そこからは壱号館もバタバタだった。いくら壱号館はいつも通りの営業とはいえ、翔と東吾が欠けると忙しかったし、掃除はいつも以上に念入りにするようにと指示が出ていた。

 東吾もできる限りはとせっせと働いて午前中を過ごし、15時の開店時間を迎えた。壱号館は旅館代わりに使う客が15時から16時頃に訪れるが、単純に風呂に入りにくる客は18時から20時頃が1番多かった。いつもより少し落ち着きなく仕事をしていた東吾に佳純が準備をするよう声をかけたのは宿泊客が落ち着き、そろそろ日帰りの客たちがやってくるかという18時だった。

「いつもの倍は時間をかけて体を磨き上げてね」

そんなあらぬ誤解をされそうな言葉とともに放り込まれたのは客用の1番小さな風呂だった。おまけにただの湯ではなく薬湯だ。東吾が面食らっていると良介という先輩従業員が新しい着替えを手に風呂場に入ってきた。

「驚いたか?神様の前にいくのにただ風呂で体洗って終わりってわけにはいかないだろ。禊っていってな。本当は冷水を被ったりするんだけど、その代わりだな。この薬湯で頭の先から足の先まで丁寧に洗えよ?」

「わかりました。なんか、もっと簡単には考えた自分が恥ずかしいです」

「あははは!気にするな!神様への会い方なんて知ってる奴のほうが少ないさ。じゃ、ゆっくり浸かってこいよ」

良介はそう言うと着替えを渡して手をひらひら振って出ていった。

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