湯屋の害となるものは許しません①
その日は月の出ない新月だった。いつもより夜の闇が濃い。そろそろ時計の針が深夜をさそうというとき、伊織は妙な胸騒ぎを感じて執務室を出た。
「どうした?」
「なんだか胸騒ぎがして。見回りに行ってきます」
伊織の言葉に玉城は眉間に皺を寄せた。伊織の胸騒ぎとか嫌な予感とかいうものは外れたことがなかった。風が窓をガタガタと鳴らす。空気がどことなく張りつめていた。
壱号館は最後の客を送り出して営業を終えている。今夜は泊まり客もいなかった。参号館はいつものように賑わっていて特に変わった様子はない。壱、参号館をまわって最後に弐号館に行く。弐号館もいつもの変わりなく賑わっていた。
「伊織さま、玉城さま、何かございましたか?」
詰所に入ると弐号館主任の菖蒲が少し驚いたように立ち上がる。伊織は苦笑しながら首を振った。
「何かあったというわけではありませんが、少し胸騒ぎがしたので見回っていたんです」
「まあ、それは…」
伊織のそういう予感がよく当たることを知っている菖蒲の表情も険しくなる。その時、ふと伊織が顔を上げ、ハッとして詰所を出た。
「大窓を開けなさい!早く!!」
詰所出てちょうど大窓の近くにいた従業員に大声で指示を出す。従業員が慌てて大窓を開けると、暗闇からこちらに向かってくる影があった。その影は開けられた大窓目掛けて飛んでくると勢いを殺しきれずに滑り込むように入ってきた。
ズベシャッ!
なんとも気味の悪い音をたてて滑り込み、床に倒れこんだのはふたりの天狗だった。ひとりは血みどろで自力では飛ぶこともできない。子どもの域を出ないだろうもうひとりが小柄な体で支えて飛んできたらしい。
「玉城!結界を!」
伊織はそれだけ言うと天狗たちの元に駆け寄った。玉城が開けられた大窓と天狗たちを囲うように結界を張る。菖蒲は騒ぎだした客たちの対応にあたった。
「何事です!?」
駆け寄った伊織が尋ねると小柄な天狗がハッとして伊織を見た。その瞳には怯えがあり、体が小刻みに震えていた。
「あ…た、助けてください!」
「何があったのです?ご説明を」
「お、俺たちは神楽山の天狗です。闇に紛れて、呪いの塊みたいなのが里を襲ってきたんです。あまりに大きくて、他の仲間は喰われました。兄者も、俺を庇って…」
そう言って天狗の目から涙が溢れる。なるほど兄弟かと思いながら伊織は倒れたままの血まみれの天狗を見てから開いたままの大窓の向こうに広がる闇を見据えた。
「玉城、すぐに彼らの手当てを。それと九郎さんを呼んでください」
「わかった。大丈夫か?」
「問題ありません」
玉城の問いに静かに答えた伊織が右手を伸ばして拳を握る。すると、その手に一振の刀が現れた。
「何者であろうと、この湯屋を脅かすことは許しません」
普段の伊織からは想像もつかないような冷たい声が響く。玉城は苦笑すると天狗の兄を抱き上げ、手当てするため弟も連れて少し離れた長椅子に移動した。
「玉城殿、何事か?」
ちょうどそこに九郎が呼ばれてやってきた。玉城は意識のない天狗の兄を長椅子に寝かせながらさっき聞いた話を聞かせた。
「呪いの塊?」
「人間の負の感情の塊、と言い換えてもいいかもな。ひとつひとつなら大したことはないんだろうが、大勢の人間の負の感情が凝り固まったら、さらに力をつけようと妖を襲ってもおかしくない」
「なるほど。こいつらはそれに襲われたのか」
「それだけではない…」
九郎の声に掠れた声が反応する。九郎が目を向けると兄天狗が意識を取り戻していた。
「何者かが、あれに核を埋め込んでいる。故に妖力を得ようと妖を襲うのだ」
「なるほど。妖力を集めようとしている者がいるのか。核があるということは、獲物を探して認識する程度の知能はあるわけだ」
「だが、言い換えればそれしかできぬ。伊織の敵ではない」
玉城はそう言って笑うと伊織に目を向けた。
伊織は闇の中、こちらに向かってくるモノを見据えていた。足が6本あり、まるで太った蜘蛛のような姿のおぞましい化け物。それは天狗が流した血を辿ってまっすぐ湯屋に向かっていた。
「玉城、結界の強度を最大まで上げてください」
「わかった」
湯屋にいる誰もが向かってくるモノの気配を認識できるようになったとき、伊織からの指示が出る。玉城は天狗の手当てを九郎に任せると湯屋全体に張られている結界の強度を最大まで引き上げた。それと同時に伊織が大窓から外に出る。玉城や菖蒲を始め、従業員や客までが大窓に近寄って呪いの塊を迎え撃とうとしている伊織を見つめた。
「来た」
伊織の呟きと共に湯屋の前の木々が倒れる。姿を現した化け物はゆうに3mはあろうかという巨体だった。
「あんなに、大きく…」
大窓のそばまで来ていた弟天狗が愕然と呟く。それを聞いて玉城は舌打ちした。
「天狗を喰ってさらにでかくなったのか」
「人の心があのようなものを産み出すなんて」
着物の袖で口元を覆いながら菖蒲が呟く。だが、玉城は感情豊かは人間だからこそ産み出せるのだろうと思った。
『チカラ…ツヨイ、チカラ…ホシイ、ホシイ…』
化け物が甲高くひび割れたような声で呟くように繰り返す。伊織はそれを睨み付けると刀を抜いてまっすぐ刃を向けた。
「立ち去れ。と言っても通じませんね」
己に刀を向ける男を新た餌と認識した化け物が大口を開けてニタアッと笑う。その濁った赤い目は伊織を見据えていた。
「ツヨイ、ツヨイ、オイシソウ!」
まるで子どもがはしゃぐように呟いた化け物が今までの比ではない早さで伊織に向かってくる。客の中には伊織の身を案じて叫ぶものもいたが、玉城や菖蒲、伊織の実力を知るものたちは慌てず事のなり行きを見守っていた。
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