母親であり湯屋の先代主である雪音の墓参りに行った伊織が父親である惶葵を連れて帰って来た。伊織が3歳になるまで憩い湯で過ごした惶葵を知る古参のものたちはその気配を感じて総出で出迎えた。新参のものたちも古参のものたちに促されて外に出る。壱号館から参号館まで、人間も妖も、全従業員が並ぶさまは壮観だった。

「おかえりなさいませ」

九郎を筆頭に全員が頭を下げる。伊織と玉城はその様子に苦笑し、出迎えられた惶葵はわずかに困惑した表情を浮かべた。

「ただいま帰りました。九郎さん、お父さんは数日滞在してくださいますから、お部屋の用意をお願いします」

「わかった。以前の部屋がそのままだからな。掃除をしておく」

どこか嬉しそうな伊織の様子に微笑みながら九郎がうなずく。惶葵は憩い湯を見上げると懐かしそうに目を細めた。そしておもむろに左手の親指を噛み傷をつける。流れる血はそのまま地面に落ち、吸い込まれた。その瞬間、湯屋の周りに張られた結界の外側にもうひとつ、強固な結界が張られた。

「相変わらずお見事です」

「お前たちの結界ほどではない。ふたりでひとつの結界を張り続けるのはなかなか難しい」

玉城の言葉に首を振った惶葵は懐かしむようにゆっくりした足取りで憩い湯に入っていった。


 惶葵の部屋は伊織の部屋のさらに奥にあった。そこは元々伊織の母である雪音の部屋。伊織が3歳になるまで親子3人で過ごした部屋だった。雪音が亡くなってからも惶葵がいつ来てもいいように、その部屋はそのままにしてあった。

「懐かしいな」

一通り憩い湯の中を見て回った後、部屋に案内された惶葵がわずかに目を細めて呟く。伊織はにこりと笑うと先に部屋に入って窓を開けた。

「この部屋は何も変えていませんから。お母さんが使っていた時のままです」

「そうか。お前と会ったのは、あの九尾の狐と番になりたいと言いにきて以来だが、幸せそうで安心した。雪音も、きっと安心しているだろう」

父からの思わぬ言葉に伊織は目を見張った。そしてはにかむように、花が咲いたような満面の笑みを浮かべた。

「はい。玉城がいて、みんながいて、ここにいられて、私は今、とても幸せです」

伊織の笑顔に惶葵が眩しそうに目を細める。惶葵は伊織の頭を優しく撫でると窓から外に目を向けた。

「私がお前のためにしてやれることは多くない。だが、私もお前やここは守りたい。ここは雪音が愛し、守った場所。そして、今はお前が愛し、守っている場所だ」

「はい。私も、ここに危害を加えようとするものを許すつもりはありません」

伊織の言葉に惶葵は小さく微笑んでうなずいた。


 惶葵を部屋に案内した後、伊織は仕事に戻った。玉城は気にせずたまの親子水入らずの時間を楽しめと言ってくれたが、やはり仕事の全てを玉城に押し付けるのは気が引けた。惶葵から好きにあちこち見て回るから特にかまわなくていいと言われたこともあり、夕食を一緒に摂る約束をして伊織は執務室に戻った。

 ひとりになった惶葵は部屋の机におかれている写真立てを手にとり目を細めた。そこには幼い伊織とそれを抱く雪音、そして自分が写っている。長くひとりで生きていた自分にとって、雪音とふたりで過ごした数年間、伊織が生まれて3人で過ごした3年間がとても色鮮やかで穏やかな日々だった。本当なら、ずっとそばにいてやりたいとも思った。だが、鬼神とも言われる自分がここにいることで、警戒して足が遠退く客がいたことも事実だった。湯屋を愛し守ろうとする雪音の迷惑になりたくなくて、愛しい妻と幼い我が子を残してここを出た。雪音とは頻繁に顔を会わせていたが、伊織とは年に一度、正月くらいにしか顔を会わせなかった。伊織は自分の血を引いている。そして、先祖の鬼の血も色濃く宿していた。まだ力の制御もままならない幼子が、自分の力に引かれて暴走することを恐れた。

 伊織が15になると惶葵は鬼の力の使い方を教えた。雪音の家に代々伝わる妖刀『鬼一』。いずれ伊織が受け継いだ時使いこなせるように、剣術も教え込んだ。伊織は惶葵の教えを受けて身を守る術、戦う術を学んだ。


 写真を手に物思いに耽っていた惶葵は部屋を出ると外に出て湯屋の周りを歩いた。すでに玄関に暖簾がかかり、壱号館には客が入り始めている時間。人目につくことはあまり好まなかったが、日が落ちて弐号館、参号館の客が増えてからでは余計動きにくかった。

 ゆっくり周りを歩いて、弐号館の大窓の下で足を止める。そこは伊織があの化け物を倒した場所だった。浄化はしてあるが、やはりほんのわずかに穢れの残滓が残っていた。伊織が持っていた赤い玉にも残っていた気配。まさかと思ったが、この場所にもやはり知った気配が残っていた。

「生きていたのか…」

眉間に皺を寄せて呟いた惶葵は、その残滓を辿って神楽山の天狗の里まで足をのばした。全てを焼かれたそこには、化け物が長く留まったせいか色濃く気配が残っていた。

「間違いないな。さて、どうするか」

呟いた惶葵はすっかり日が傾いていることに気づいて、夕食に遅れるわけにはいかないとひとます湯屋に戻った。

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