②
壱号館の改修は日中のみやってもらうことにして施行業者と話をつけた。改修工事は来月3日から。1日と2日は壱号館の従業員総出で大掃除をすることになっている。基本的に年中無休で営業しているので、全体を大掃除できる機会はまれだった。
壱号館の一時休館はすぐに客に周知された。張り紙はもちろん、受け付けでも話し、常連客には直接電話をして伝えたりもした。客からは一時的とはいえ休館を惜しむ声もあったが、改修を行うことを伝えると納得してくれた。今までほとんど大きな改修が入ることがなかった壱号館はいまだに階段しかなく、高齢の客からはどうにかならないだろうかと苦情まではいかずとも相談を何度か受けていた。伊織もエレベーターなどの導入を考えたが、そうなるとどうしても大規模な改修が必要になってしまい、時間的にも経費的も厳しいのが現状だった。
休館前最後の営業日には伊織も壱号館に出て直接客に声をかけた。普段あまり姿を見せない伊織が出てきたことで、常連客を中心に壱号館は異様な盛り上がりを見せた。
「ありがとうございました。再開いたしましたらぜひまたお越しください」
最後の客を見送った伊織と佳純はそのまま詰所に戻ると休館中のことを最終確認した。
「佳純さんは業者さんが変なところに入り込んだりしないよう見張りをお願いします」
「はい。私と良介さん、健斗くんでしっかり見ておきます」
佳純の頼もしい言葉に伊織はにこりと笑ってうなずいた。信用できる業者を選んだつもりなのでないと言いたいが、もし万が一弐号館や参号館に迷いこんだり、勝手にあちこち見て回られては困るので、佳純をはじめ数人に業者の監視を頼んでいたのだ。
「改修中は何もないといいですね」
「そうですね。でも、こればかりは読めませんから。警戒は常に最大限でいきましょう」
伊織の言葉に佳純は「もちろんです」と笑ってうなずいた。
2日間で大掃除を終え、その後はそれぞれ弐号館で働く者、参号館で働く者、閉まっている間に掃除をする者、資格取得のために勉強する者と分かれることを確認して詰所を出た伊織はそのままボイラー室に向かった。そこでは壱号館の全ての風呂に湯をまわし、希望があったときには薬湯も用意していた。
「義治さん、こんばんは」
ボイラー室に入って伊織が声をかけると、義治は驚いたような顔をして首に巻いたタオルで汗を拭った。
「坊っちゃん、こんなところわざわざどうしたんです?」
「今日で一旦壱号館を閉めますから、湯のほうはどうかなと思いまして」
にこりと笑った伊織に義治は「安心してください」と笑った。
「閉めている間もボイラーの整備は怠りませんよ。建物を改修するようにボイラーも古い部品なんかを交換しようと思ってます」
「よろしくお願いしますね。壱号館の風呂は義治さんがいないと回りませんから」
伊織の言葉に義治は嬉しそうに笑って「お任せください」と言った。
「坊っちゃん、旦那さまがいなくなって、寂しくはありませんかい?」
義治の問いかけに伊織は少し困ったように笑って頬を掻いた。
「寂しいとか言う歳でもないと思うんですけどね。正直、少し寂しいです。みんなには内緒ですよ?」
伊織にとって子どもの頃から湯屋で働く義治は祖父のような存在だった。ボイラー室は普段あまり人が来ない。子どもの伊織にとっては絶好の隠れ家だった。
「坊っちゃん、あまり無理をしちゃいけませんぜ?」
子どもの頃より皺の増えた、だがあの頃と変わらない笑顔で義治が飴を差し出してくれる。伊織ははにかみながらそれを受け取った。
「ありがとう、おじいちゃん。また来るね」
つい子どもの頃と同じ呼び方をした伊織はひらひらと手を振ってボイラー室を出ていった。
「じいさん、誰か来てたのか?っておい、泣いてんのか?」
話し声に気づいてボイラー室の奥から顔を出したのは薬師の大和。大和は目頭を押さえて言葉もない義治の様子に「ああ、若旦那が来たのか」と納得した。
「若旦那がここの来るの久しぶりだもんな。そりゃ泣けてもくるか」
「うるさいわい!無駄口を叩くな」
義治の照れ隠しとも取れる怒鳴り声に大和は笑って肩をすくめた。
ボイラー室を出た伊織は義治から渡された飴を見て笑みを浮かべた。湯屋の従業員たちは子どもの頃からずっと一緒だった家族だ。人間も妖も、古参も新参も関係ない。伊織が守るべき大切な家族。
「ここは私の大切な場所。私の家、私の家族の害になるものは決して許さない」
人知れず呟いた声は冷え冷えとしていて、その瞳には怒りと決意があった。
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