不穏な噂を耳にしました①
伊織が陰陽師の術の勉強を始めてからひと月。蘆谷道満の動きは全く掴めなかった。何もないならそれでいいと、伊織は術の勉強と己の体の復調に努めた。玉城も伊織が無理をしないように公私をサポートし、従業員たちも積極的に手合わせを申し出た。
ある意味穏やかな時間が過ぎていたある日、営業時間内で館内を歩いていた弐号館主任菖蒲の耳にとある噂が入ってきた。
樹海の鬼が殺されたらしい。
その噂をしていたのは妖たちだった。樹海の鬼とは大昔から樹海に住み着いている鬼のことだった。人の肉を好むため、面白半分で樹海に入ってきた人間や、死を望んで入ってきた人間を喰らうとされていた。元々樹海は広く深いため迷いやすい。人が入り込めないところもある。捜索して発見できなくても誰も不思議には思わないことで、鬼にとっては格好の餌場だったようだ。長く生き、決して弱くはない鬼。その鬼が殺された。では、殺したのは誰か。確証はなくとも妖たちは皆噂していた。
殺したのは蘆谷道満だ。道満が鬼を喰らってその力を我が物とした。
そんな噂がまことしやかに囁かれていた。
「伊織さま、少しお耳に入れたいことが」
そう言って執務室に入った菖蒲はそこに参号館主任九郎がいることに気づいて足を止めた。
「菖蒲、お前ももしかして噂を聞いたのか?」
九郎の問いかけにうなずいて菖蒲は伊織の前に立った。
「おそらくそうだと思いますわ。鬼が殺されたという噂です」
「樹海の鬼が蘆谷道満に喰われた、いうものですか?」
険しい表情で尋ねた伊織に菖蒲はうなずいた。
「九郎さんからちょうど今同じ噂の報告を受けていたところです」
「そうでしたか。参号館でも噂になっているのなら、信憑性はありそうですわね」
菖蒲の言葉に伊織はうなずいて玉城を見た。
「玉城はどう思いますか?」
「おそらく、お前の浄化の光に焼かれてかなり消耗したんだろう。その回復のために鬼を喰らった。鬼を狙ったのはお前が鬼の血を引いているからというのもあるだろう」
「では、またここを狙ってくるか」
九郎が呟くと、伊織の顔から表情が消えた。
「九郎さん、菖蒲さん、今それぞれの館で戦闘に参加できる方はどれくらいいますか?」
「弐号館からは5人ほど出せるかと。強さを問わないとおっしゃるなら15人はいけますが、それなりの強さがなければ足手まといでしょう」
「参号館からは8人だな。あいつらなら足手まといにはならないだろう」
それぞれの答えを聞いた伊織はうなずくとゆっくり息を吐いた。
「今回は、私ひとりで戦おうとは思っていません。卑怯と言われようが、最優先はここを守ること。そのために、私ひとりの力で足りないなら、皆の力も借りようと思います」
「伊織さま…」
今まで常にひとりで敵に向かっていた伊織から出た言葉に菖蒲が感極まったように口元をおおう。そして九郎は嬉しそうに笑っていた。
「玉城、あなたも力を貸してくれますか?」
「もちろんだ」
玉城の返事に伊織はふわりと微笑んだ。
「また蘆谷道満が襲ってきた場合、湯屋を守る結界の維持は九郎さんと菖蒲さんにお願いしたいと思います。玉城は私のそばで、私と一緒に戦ってください」
伊織の言葉に九郎と菖蒲はうなずき、玉城は驚きのあまり目を見張って固まっていた。
「玉城殿、驚きすぎだろう」
「っ、すまない。伊織、お前は必ず俺が守る」
「お願いしますね」
九郎に声をかけられてハッとした様子の玉城に苦笑しながら伊織はうなずいた。
「今回、人間は戦力に数えません。結界の補佐はしてもらうかもしれませんが、基本的に襲来があった場合全員速やかにシェルターに避難してもらいます。お客さまについては結界内で待機していてほしいと思いますが、今回湯屋が開いている時間に襲ってくる可能性は低いのではと考えています」
「その心は?」
「今回はお客さまが介入してくる可能性があるからです。前回の襲撃はたくさんのお客さまが目撃しました。そして、敵意や殺意を向けていた。それがわからぬほど馬鹿ではないでしょう。たくさんの妖や神を相手にしたいとは誰も思わないでしょう?」
伊織の推測に3人は苦笑しながらうなずいた。
「確かにな。特に参号館の客は殺気だっている。今回の噂を聞いてまたここを襲う力を蓄えていると考えているようだな。次は抑えるのが難しい」
「実際、神に出てこられるとこちらとしても止める術がありません。神に逆らうことはできませんから。そうなったら私たちの出る幕はないかもしれませんね」
「それはそれで楽でいいのだがな」
玉城は苦笑しながら言うと煙管に火をつけて紫煙を燻らせた。
「壱号館のほうには私が直接伝えます。弐号館、参号館のほうにはそれぞれお願いします。誰が戦力になり得るのかは明日改めて教えてください」
「わかった」
「わかりましたわ」
九郎と菖蒲はそれぞれうなずくと執務室を出ていった。
「伊織、どういう心境の変化があったんだ?」
ふたりきりになると玉城が尋ねてくる。伊織は苦笑すると赤鬼と青鬼に言われたのだと肩をすくめた。
「実は、赤霧と青霧に言われたんです。もっと自分たちを頼ってほしいと。私がここを、みんなと守りたいように、自分たちも守りたいと思っているのだとわかってほしいと」
「なるほど。それで皆の力を借りることにしたのか。いいことだな」
「逆の立場だったら嫌だなって思ったんです。嫌なことを今までみんなに強いていた。あなたに強いていたと思ったら申し訳なくて」
伊織はそう言うと「今まで気づかなくてすみませんでした」と頭を下げた。
「別に頭を下げることはない。俺も納得していたことだしな。だが、こうして頼ってもらえて、隣で戦うことを許されるというのは嬉しいものだな」
「ありがとうございます。おおいに頼りにしていますね」
玉城の言葉に微笑みながら伊織が言うと、玉城は「任せろ」と言って力強くうなずいた。
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